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2008年芸大退任コンサート

2008年 芸大退任コンサートプログラムより 抜粋

 

 

ご挨拶と御礼 そして 回想

 

 

                                                                                                                                                                                            野田暉行

 

 今夜は、私の私的な会にお出かけ下さり有り難うございます。

 もともとこのような会を催すつもりはありませんでした。きっかけは、松下功先生から言われた「何もやらないのですか」という一言でした。近年、退任者が最終講義をするのが一つの習慣となっているのです。ただ、私の本音は日常のままに去ることであり、決めかねて迷っていたのでした。

 その迷いに決着がついたのは、岡山潔先生から突然いただいた思いもかけないご提案でした。芸大チェンバーオーケストラで私の作品を演奏して手向けにして下さる、すでに弦楽器部会の同意も得ているというお話でした。

 何年か前、世界一すばらしい室内オーケストラを結成したいという先生の熱い思いを受け、私も微力ではありますが発足に協力させていただきました。その後、このオーケストラが見事なアンサンブルを展開し、海外公演でも極めて高い評価を受けていることは皆さんご承知の通りです。メンバーは年々入れ替わりますが、常に高い水準を維持するこのオーケストラは、芸大教育の一つの証でもあるのです。

 岡山先生は、何時だったか私が弦楽合奏の曲をお見せしたのを覚えていて下さり、このような提案をして下さったのでした。感謝に堪えません。

 さらに、そのために芸大から奏楽堂を用意していただきました。せっかくの機会を、意味ある一夜の音楽会とさせていただこうと、プログラムを考えることに致しました。ただ、最終講義なので話だけは絶対するようにとのことでした。奏楽堂で私が話しても始まらないのですが。

 芸大在任中、私は、100周年記念に「交響壁画」を、奏楽堂こけら落としに「開眼会」を、美術館開館式典に「ファンファーレと 記念音楽」を作曲し初演しました。頭に浮かんだのはまずこれらの曲でしたが、この中から最も短い1曲を、芸大と縁(えにし)のに再演することに致しました。

 そのために、チェンバーオーケストラに加えて学生有志のご協力を仰ぐことになり、稲川榮一先生、河野文昭先生、管打楽器部会が、私の意向に快く応じて下さり、そのための面倒な労をとって下さいました。

 もう1曲、最初に「ホルン三重奏曲」を演奏しますが、この曲もまた、私にとって芸大との大きな縁(えにし)を感じる曲です。詳しくはプログラムノートに書くことにしますが、演奏者をお願いするにあたって、守山光三先生、粕谷美智子先生、澤和樹先生のご尽力をいただきました。特に澤先生から、自ら演奏するいうお申し出をいただいたのは、思ってもみなかった大きな喜びであり驚きでした。

 また、この会は、作曲科の先生方のご支援と、同声会からのご援助、演奏芸術センター、演奏企画室をはじめとする方々のご協力により開催されることを申し上げなくてはなりません。

 このように多くの先生方、学生諸君のご協力、各位のご厚意に、ただただ深く感謝申し上げる次第です。

  そして最後に、プログラム作成等の準備をしてくれた私の講座の学生諸君、チラシのすてきなデザインをしてくれたアメリカの留学生ルビオ君に感謝。

 さて、自らを振り返るとき、私の思いは一気に半世紀を飛んで、高校の時代にまで遡ってしまいます。私にとって、過去はまさにその時代でしかありません。物心ついてからの音楽活動のすべては芸大と軌を一にしており、それはまさに今終わろうとしている現在であるからです。

 長くなりますが、この機会に、これまで語ってこなかった私的なことを少し書かせていただこうと思います。どうぞ、面倒な方はここからプログラムノートにワープして下さい。

 

 中学の頃から作曲を始めた私は、高校ではもう病膏肓となり、毎日ひたすら音符を書き、スコアを眺め、歌い、弾くといったことに明け暮れておりました。誰にも何も習わず、ただただ自分のやりたいことをやるのみ、そして、田舎(三重県津市)の輝く自然の中で、友人と大いに語り合っては日々を満喫していたのでした。この印象的な日々が現在の私の原点となりました。音楽的にも最も重要な部分がこのときに築かれたように思います。

 その頃の私の考えは、自分は一生作曲をするが、仕事は別に持って、音楽家、作曲家にはならない、そう呼ばれたくもない、現世に何も求めない、ただ一人の人間である、というものでした。4畳半の部屋に一人居て”一日に玄米四合と味噌と少しの野菜食べ”、作曲をするのが理想でした。そのことを考えると今も胸の高鳴るのを覚えるのです。

 「ロマンロラン友の会」というクラブに属していましたが、その名前にもかかわらず、このクラブの精神的バックボ-ンは宮沢賢治であり、その影響があったのかもしれません。何をする会でもないのですが、常に語り、ハイキングに出かけ、1年に1回、施設の子供たちを招いて大々的な文化祭をやるというのが恒例でした。おにぎりを作り、プレゼントを用意し、演劇に司会に奔走した一日の後に、手を振って別れを惜しんだ子供たちの顔が忘れられません。このクラブの仲間も今はもう幾人かが鬼籍に入りました。

 芸大やコンクールを薦めてくれる友人もおりましたが論外で、耳を貸しませんでした。実は私は芸大が嫌いで、芸大で作曲を習うなど何か筋違いではないかとすら思っていたのです。ただ自分がひどく未熟であることは熟知しておりました。しかし習うのであれば本物をという強い気持ちがあり、それは田舎ではどうしようもないことでした。何しろ、東京に電話をかけるのに20分も待たなくてはならないような時代でしたから。

 卒業を迎え、一応進学校でしたので、私も指導教諭の指示通りに京都大学を受験しました。ほとんど一夜漬けのような勉強でしたが、それでも結構成績はよかったのです。ただ暗記を主体とした社会系の学科が半分に達しない出来で、もちろん落ちてしまいました。

 これが私の人生の大きな岐路となりました、受験をもう一度やり直す気持ちがどうしても起きず、私のポリシーの一角が崩れざるを得なくなりました。親の気持ちも無視することができず、心ならずも新たな選択を迫られることになってしまったのでした。

 「パンのために作曲の道を選ぶことが許されるだろうか」という手紙をある友人に出しました。私のピアノ曲を音楽の時間に初めて弾いてくれた女性です。その返事が届き、私ははじめて音楽の勉強の第一歩を踏み出すため上京したのでした。1958年7月末、18歳のことです。

 何のあてもなく、一度耳にしたことのある池内友次郎先生の名を頼りに、たまたま上京していた中学の恩師とともにお宅に押しかけました。実は、高校時代に矢代秋雄先生の交響曲をラジオで聴き、習うならこの人だと思っていたのですが、留学中という記述が私の持っていた資料にあり(古いものでした)あきらめたのです。その望みがわずか数ヶ月後に実現するとは、その時は夢にも思っておりませんでした。

  稚拙な管弦楽曲、協奏曲、合唱付管弦楽、ピアノ曲、歌曲などを持って伺いましたが、先生は歌曲の一つを歌って目を通されたあと、「旋律が美しい。こういう人が作曲しなくてはいけない」と言われ、2日後に早速レッスンが始まりました。この曲は、後年、私の還暦の会で、殆どオリジナルのまま演奏したものです。先生はまた、芸大が近道であるとも言われ、まさにこの瞬間に、その後の私の運命が決定づけられることになりました。

 その時弾いて下さったフォーシェのアルテルネ、Des-durの旋律課題は、それまで経験したことのない美しさであり、帰り道、私の頭はそのことでいっぱいでした。 池内先生との出会いはまさに求めていた本物との決定的なものでした。

 数回のレッスンの後しばらく空白があり、10月はじめに、池内先生が探して下さった下宿を頼りに上京しましたが、その直前、伊勢湾台風の襲来で私の故郷は大被害を受け、交通も寸断されたため、たどり着くのはたいへんなことでした。ようやく着いてみれば、先生は審査のためパリ音楽院に出かけられた後で、11月中旬までレッスンはなく、一人下宿で自作のピアノ曲のオーケストレーションなどをして過ごす毎日でした。

 それからの3ヶ月余、おそらく私は先生の魔法にかけられたのでしょう。翌年3月、芸大に合格し、ここで今に続く現在が始まったのです。

  自分で言うのもおこがましいことですが、芸大で私はほんとうによく勉強したと思います。高校時代の気持ちには変りありませんが、しかしそれを確信をもって言えるためには、勉強する以外、道はなかったのです。

 今はもういない畏友、故牧野君と私は、いつもペアを組んで、寸暇を惜しんで切磋琢磨し合っておりました。当時は1号館校舎はなく、3号館と旧奏楽堂、それを取り巻く古い教室がすべてでしたが、3号館の各階にあったロビーのテーブル、旧館の端にあった細い小部屋などで、よく課題の検討や論議をしたものでした。

 池内クラスは、池内先生と矢代先生、島岡謙先生が分担して学生を見るシステムで、1年次は週3回のレッスンが行われました。レッスンに出かけることは実に楽しく、朝、校門が開くと同時に教室に入り、ピアノや、冬場にはルンペンストーブの準備を整え、自分の解答を試奏してミスがないかをチェックし、先生をお待ちするというのが常でした。

 矢代先生のレッスンはしばしば終日行われ、私はすべての人のレッスンを見学しておりました。昼食をどうしたのか、今どうしても思い出せないのですが、おそらく当時まだ旧奏楽堂裏にあったキャッスルにお供したに違いありません。ただ音楽音楽でした。矢代先生と交わした微に入り細に入った音楽談義は決して忘れることのできないものです。

 キャッスルはいつも華やいだ雰囲気と熱気が漂っていました。若杉弘先生や原田茂生先生など今や名だたる方々が大勢まだ若い先輩としておられ、若輩の私も生意気な口をきいてお仲間入りさせていただいたりしたものでした。ただここでも、音楽の話をした記憶しか出てこないのです。

  私はすべてのことを芸大から学びました。音楽のすべてが芸大にありました。それは今も変りありません。学ぶ者がそれに気付き引き出せるかどうかに過ぎないのです。

 10ヶ月ほど前まで田舎の小僧っ子にすぎなかった私は、今はもうそうではないという実感を持ったものでした。

  渡辺暁雄先生の指揮のレッスンもまた、私にとって終生忘れることのできない貴重な宝です。先生は副科のこの授業をほんとうに熱心に本格的に教えて下さいました。小林研一郎さん、手塚幸紀さんが同級としておられ、クラスはたいへん活気づいておりました。副科としては異例に学生オケを振らせていただき、その録音を聴きながらの指導があり、また取り上げた作品もモーツァルト、ベートーベンから兵士、春サイ、弦チェレに至るまで実に広範なものでした。年度末の試験は第9でしたが、ピアノ連弾を若杉先生と遠藤雅比古先生が受け持たれるいう贅沢なものでした。

 渡辺先生は私に、当時常任をしておられた日本フィルの、練習場と本番の自由な出入りを許して下さいました。それは数年間続きましたが、このことが私に如何に大きなものをもたらしたか、言葉で言い尽くすことはできません。

 卒業の1年前だったでしょうか、大学院が設置され、私もそれに進みましたが、日本フィルの委嘱作「交響曲」(第1番)を修了作品として提出しました。総じて大学院は社会の活動と一体になったもので、実質的な基本的学習は学部で終わっていたように思います。

 26歳、いよいよ芸大とお別れする時点で、予期しないことが起こりました。池内先生から、「助手の席が空いているから芸大に残らないか」と言われたのでした。とっさに私は拒絶反応を感じ、はっきりした返事を先生に返すことができませんでした。どのくらいの間迷っていたのか、当時音楽之友社におられたT氏に相談したりもしましたが、その答えは予想もしなかった明快なもので驚いてしまいました。私が世間知らずであったことは確かです。

 ある日、池内先生に銀座のバーに連れて行かれました。矢代先生、金沢桂子(現・希尹子)先生が一緒でしたが、「どうだ野田君来ないか」と池内先生に言われ、私は「じゃあ仕方ない」などと言ってしまいました。金沢先生から「なんてこと言うのよ」と言われて初めて失言に気がつく有様でした。池内先生は意に介さず「矢代君、証人だよ」と言われ、その後は笑い話に興じましたが、その時の会話と、店を出てから、酩酊気味の矢代先生が銀座の通りを踊って歩かれた情景が忘れられません。

 それから40年間、私の現在が連綿と続くことになりました。矢代先生がその後10年もしないうちに亡くなられたのはほんとうに信じられない悲しい出来事でした。この大きな損失を補うことは不可能ですが、悲しみの中から未来を築いて行かなくてはなりません。

 高校時代嫌いだと言っていた芸大に、こうして長きに亘ってほんとうにお世話になってしまいました。心からの感謝を捧げないではおれません。これが私の宿命だとすれば、ようやく今、私が理想としていた時が到来しようとしているのかもしれません。音楽への気持ちは高校時代と何も変わるものではありません。変わったのは歳を取ったこと、そして技術を手に入れたことでしょう。

 この数年、副学長、理事兼任中は作曲をお蔵入りにしていましたが、一昨年からポコ・ア・ポコ、高校時代の夢の再現部に入りつつあるところです。

 ほんとうにいろいろなことが次々に想起されます。そこにはいくつかの重要な記録もありますが、それはまた稿を改めることに致します。老人ボケで忘れないようしなくてはなりませんが。

          

                                                   


 

プログラムノート

 

ホルン三重奏曲

 

 私が3年生の時、作曲科のカリキュラムに大変化が起きました。池内先生が主任になられるやいなや、各学年の作品提出が義務付けられたのです。それが現在も続いて、学生諸君を苦しめているわけです。それまでは卒業作品提出以外義務はありませんでした。ただ、池内クラスは毎学年、独自の試験をやっていましたが。

 これは、その新制度第1回目の提出作品です。私にとって、入学以来初めてのまとまった作品であり、それまで書いていた作品とは意識的にも一線を画すものです。私はこの曲からすべてが始まったと思っています。第1楽章が完成し、池内先生に見ていただいた時の先生の言葉は「あなたは作曲家になれるでしょう。金は儲からないかもしれないけどね。

矢代はなんと言いましたか」というものでした。

 

 1961年  9月~1962年2月 作曲。

 1963年12月13日 芸大奏楽堂(旧)提出作品の優秀作による「作曲科作品演奏会」

          で初演。Hr.:千葉馨 Vn.:長井明 Pf.::松谷翠(故)

 1964年 1月  NHK第2放送「現代音楽の時間」で放送初演

 1969年     キングレコード「池内友次郎とその門下」レコーディング(現在CD)

                    Hr.:千葉馨 Vn.:田中千香士 Pf/: 本荘令子

  BCAでオンデマンド出版中

 

  当時は学内にホルンの引き受け手がなく、池内先生が特別に日本を代表するN響のトップ奏者、千葉馨氏に頼んで下さり初演が実現しました。氏は無償で引き受けて下さり、何度も学生との練習を重ね、指導をして下さり、すばらしい演奏をして下さったのでした。

 原曲は43分ほどかかりますが、その後、1983年、草津音楽祭での再演にあたって、第4楽章を約300小節程カットして35分余に縮小した第2版を作りました。今夜はこの版で演奏致します。

 さらに、ホルン奏者の大野総一郎氏が3楽章の一部をカットする30分の「大野版」を作られ、内外で度々再演して下さっています。昨年5月にも長野、岐阜での演奏会がありました。(Vn:樫本大進、Pf:本荘玲子)

 澤先生は実は私の和声のクラス授業に出席しておられました。野田さんは親戚ではなく、博士課程在学中親密にお付き合いした間柄です。松阪さんは今回初めてですが、まだ4年在学中でしかも読響のトップを吹いておられるとのこと。初演時とまさに隔世の感があります。この曲にとって新しい黄金トリオです。

  ホルントリオとしてはおそらくブラームスに次いで史上2曲目のものですが、もとよりブラームスの作品から多くのオーラを受けています。

 曲は4楽章より成り、全楽章は続けて演奏されます。

 冒頭にホルンで提示される主題は、全曲を支配し循環しつつ。各楽章の新たな主題を生み出すモットーです。

  第1楽章 プレリュード:冒頭の主題による序奏の後、旋律的な主題が現れる。

 第2楽章 スケルツォ:中間部以降、次楽章コラールの冒頭が聞こえて来る。

  第3楽章 コラールとラメント(悲歌):コラールが全容を現し続いて悲歌が歌われる。

 第4楽章 フィナーレ:序奏に続いてエネルジックな主部が展開される。後半ではテー      マがフーガを形成し、そこにコラールが重なって集結部に至る。

 

弦楽合奏のための断章

 

 2000年、鎌倉芸術館の委嘱を受け、春から初夏にかけて作曲しました。

私にとって3作目の弦楽合奏曲ですが、独奏楽器を伴わないものとしては初めてのものです。

 初演は、徳永次男氏、藤原浜雄氏らのメンバーによる鎌倉芸術館ゾリステンにより、同年7月に、鎌倉芸術館ホールで行われました。

 曲は短く特徴的な3楽章(=断章)によって構成され、それぞれにサブタイトルとして、性格を表す音楽用語が付けられています。各楽章は独立した存在ですが、主題および種々のフレーズが相互に関連し合っており、全体として一つの変容を形成します。

  1楽章 Spiritoso(精神的な活気をもって) 速い動きの中から緊張した音程関係が生ま     れ、主題的な和音、旋律へと変容する。

  2楽章 Melancolia(内省的な気分で) 冒頭のビオラの旋律が紬出す緩やかな歌の世界。

 3 楽章 Rustico(素朴に(田舎風に)) 単純な主題により展開される急速調。

 ファンファーレと記念音楽

 

  2000年10月4日の東京芸術大学美術館開館記念式典の開式音楽として、同年8月に作曲したものです。私の指揮による芸大フィルにより、この奏楽堂で初演されました。 丁度パリで能「高山右近」の連続公演中であったため、前日急遽帰国して2時間足らずのリハーサルで本番を行いましたが、芸大フィルの力量は素晴らしいものでした。。

 標準2管編成ですが、本体とは別に2本のトランペットがバンダとして配置されます。

 ファンファーレはその後、東京芸術大学大学院映像研究科の開所式で、また、日本フィルハーモニー交響楽団の創立50周年記念コンサート(小林研一郎先生指揮)のオープニングで演奏されました。

  ファンファーレに続き、アニヴァーサリーの気分に満ちた音楽となり、そこにファンファーレが背景を伴って再現されます。