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月刊おんきょう 1968年5月号掲載

クラシック談義第3回 オーケストラ 肩の凝らないはなし(連載Ⅰ~Ⅳ)

Ⅰ.演奏に際しての緊張

もう二昔も前になりますが、「カーネギーホール」という映画がありました。ストコフスキーやワルター、ルビンシュタイン等が、今はもう閉鎖されてしまったアメリカのカーネギーホールの舞台で、すばらしい演奏を繰り広げる映画でしたが、その中で、ヴァイオリンの名手ハイフェッツがこう語っておりました。「・・・開演前は、今でも同じように緊張する」この何者をも恐れるに及ばない大家の真実の謙遜を、我々はそこに読み取ることができます。これは、すべての演奏家の終生逃れられない宿命的心理を、そのまま代弁しています。

 そして、又、オーケストラに関しても全く同じことがいえます。なぜなら、オーケストラは確かに指揮者にとっての一つの楽器ではありますが、それは決して冷たい無機質のものではなく、一人一人完成した音楽家による共同社会なのですから。したがって、演奏に際して、指揮者の緊張は楽員の緊張となり、楽員の緊張は又指揮者の緊張でもあるのです。

       Ⅱ.トスカニーニとライナーの例 へ続く

 

 

Ⅱ.トスカニーニとライナーの例

 トスカニーニがワグナーのローエングリンを指揮した時の話です。この曲の冒頭では、4人のヴァイオリン奏者がこだまのように高い音を演奏するのですが、彼は、それをもっと効果的に、ほんとうのこだまのようにしたいと考えたのでした。オーケストラでは、普通、独奏は、管楽器の場合第一奏者が、弦楽器の場合は最前列に座っている主席演奏者が行うことになっています。しかし、トスカニーニは、その目的のために、それらの独奏を最後列の4人にやらせることにしたのでした。そうすれば、遠くから聞こえる高音は極めて天国的に響くでしょう。練習も滞りなく終わって本番。最初の棒を振り下ろそうとして、トスカニーニはその4人の独奏者達に目を遣りました。すると彼等はがたがた震えているではありませんか!後の4人達は、未だ嘗て独奏部分を受け持ったことがなかったので、すっかりあがってしまっていたのです。演奏の始まる瞬間というものは、それでなくても極度の緊張をもたらします。トスカニーニはそれを知って、とっさに指揮棒を下げ、いきなり胸ポケットからハンカチを出すと、激しく咳き込んだふりをしたのでした。楽員の気分が一挙に転換し、演奏は、実に見事な出来栄えだったということです。楽員の力を適度にほぐして最大限の力を発揮させた大指揮者の偉大な知恵というべきでしょう。

 これと全く逆なのは、シカゴ交響楽団の常任指揮者であったフリッツ・ライナーです。映画「カーネギーホール」でも見られましたが、彼は、しばしば、演奏の途中、曲のクライマックス等で、一時棒を振るのをやめてしまうという手を用いました。オーケストラの自主性にまかせてしまうのです。これは確かに効果があります。楽員は極めて緊張し、互に他の楽員の音を聞き合せながらアンサンブルを揃えなければなりません。そのことが演奏そのものの緊張力と密度を高めるのです。しかし、ライナーとこの方法は余りにも有名だったので、彼がニューヨークフィルを振った時には、一寸意地悪な予期せぬ珍事も起こりました。楽員が一斉に演奏を止めてしまったのです!

      Ⅲ.哀しくもおかしい緊張の例 へ続く

 

 

 

Ⅲ.哀しくもおかしい緊張の例 

 このように演奏中の心理は全く微妙なものです。近頃よく演奏されるブルックナーの交響曲の第7番には、たった一回きりシンバルが鳴り響きます。それは原曲にはなかったのですが、幻の名指揮者といわれるニキッシュが書き加えたもので、第2楽章のクライマックスで実に感動的な効果をもたらします。聴衆にとっては感動あるのみのこの一瞬も、演奏家にとっては恐怖の一瞬でしかありません。なにしろ、彼は、それ一つのために、長い間拍子を数えて待っていたのですから。もし、指揮者がそこで彼に合図をしてくれなかったら・・・これほど不安なことがあるでしょうか。

 チャイコフスキーの悲愴交響曲の終楽章。最後にだんだんと弱まって行くところでも、一回だけタムタム(ドラ)が鳴ります。ある時、そこに来て、どうも拍子を数え間違ったらしく、少し早目に楽員が立ち上がってしまいました。彼は、物音一つたてぬよう注意しながら、静かに撥を取り上げ、今や下さんとした瞬間、指揮者がその間違いに気付き、あわててサインを送りました---「まだまだ」。今度は彼の方がすっかりあわててしまいました。結局タムタムはたたかれずに、彼は、また、静かに撥を置き、物音一つたてぬよう注意しながら自分の席に戻ったのでした。こういうなんとなく嘘のような愉快な逸話がたくさん生まれる場----それがオーケストラです。

      Ⅳ.緊張が作る?奏者の性格へ続く

 

 

Ⅳ.緊張が作る?奏者の性格

 弦楽器の奏者達は、独奏の場合の他は、通常、集団で演奏するため、それでもまだ心理的に余裕があるといえるかもしれません。それにくらべると、管打楽器奏者達は、壮絶です。全く一回一回が勝負です。こういった演奏心理がふだんの生活にも滲み出るのでしょうか。多くの管打楽器の演奏家は楽天的で豪放な性格の持ち主です。このような特徴は各楽器によっても見られるようです。総体的にヴィオラの奏者はおとなしいといわれます。ヴィオラは常に厚い弦楽器群の真中、最も目立たない役割---しかし、それは極めて重要なのですが----を与えられているためでしょう。又、ホルン奏者には思索的な人が多いそうです。あのすばらしいホルンの音色はまさにそれを思わせます。少し場合は違いますが、オーボエ奏者には禿頭の人が多いというのも昔からの定説です。オーボエは口に一杯息を入れて圧力を与えないと鳴らない楽器であり、いつも頭に血が上るからだという医学的説明もありますが、近頃は女性の名手などもいたりしてこの説はあてになりません。

 オーケストラ全体の性格も必然的に定まって来ます。これにはその国柄が強く反映します。イタリアのオーケストラの練習中のおしゃべりは有名です。彼等は音を出していない時には常にしゃべっているそうです。注意するとその瞬間は静まり返るが、すぐ又もとの喧騒にかえる、とある指揮者はそのやりにくさをこぼしていました。それと対照的なのは日本のオーケストラ。外来の指揮者は皆、それを絶讃します。指揮者の注意を直ちに実行できる日本のオーケストラには、大きな未来が期待できます。フランスのオーケストラの演奏は練習し過ぎてはいけないことで有名です。「彼等の練習は常に85パーセントにとどめておかなくてはいけない」とパウル・クレツキーは感想をもらしています。100パーセントの練習は、本番で必ず悪い結果をもたらすそうです。フランス人は総体に個人的名手が多く、練習で力を出しきってしまうと、本番への闘志を無くしてしまうのだと思われます。

 過ぎたるは及ばざるが如し。

 

 

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