第1章 

 戦争の記憶 その3

  野田暉行

  事態はいよいよ切迫してきた。

 

 記録によると、四日市の壊滅的空爆以前に、既に津の周辺地区でも散発的な爆撃があったようだ。少し前に私が見た、急降下する米機はその一つかもしれなかった。時を措くことなく、それは津の市街地区にやって来るだろう、ということを皆が予測した。商売をしていたのでいろいろな人がやってきては、その聞き込んだ情報を話して行く。子供にもその内容はよくわかった。そして、誰もが「疎開」ということを言い始めた。私はその意味も知っていた。実感はなかったが、どこかへ逃げるのだという覚悟のようなものもあった。

 

 多くの人が、疎開先に持って行けないものを田舎の人々に預け家の整理をした。我が家も、タンスなどの家具や、嫁入り道具、少しばかり上等な母の着物などを農家に預かってもらい、急速に準備は進んだ。戦後、それらの多くは戻って来なかったが、それを責めたり追求する気力もなく、すべては泣き寝入りのようになって終わっていった。我が家は商売をしていたこともあってか、物々交換の形で少しは見返りがあったようではあるが。

 

 店の商品は当座の必需品以外ほとんど置き去りにされた。もう食料は完全配給制となり、皆、切符を持って決められた量を買うので、当然その量しか入荷しなかった。戦後もしばらくそれは続いた。各自、狭い自分の庭で野菜を作り自給自足しなくてはならなかった。

 

 私には、父母がラジオで情報を聞いていたという記憶がない。参謀本部の発表など無意味だと思っていたのかもしれない。店の客の方が確かなインフォメーションを教えてくれる。確かにその通りのことが起って行くのだった。人は利口だ。

 

   空襲警報が頻繁に発令され、一日に何度も鳴るようになってきた。

 

  攻撃といっても今のようにICBMがあるわけではないから、飛来の予測は南方洋上を監視すれば日本軍にも可能だったはずで、警報はかなり確度の高いものだったが、本土の何処に来るかは近づくまで確定できなかっただろう。警報の確度はその程度のものであったに違いない。来てしまえばお終いである。

 

 そのような状況であったにもかかわらず、何故かこの頃を思い出すと、暗くはあるが、ほの甘い夢のような感情が蘇る。3、4歳頃をこのような特殊な状況下で過ごしたことが、現実から自分の幻想の世界へと誘う役割を果たしたのかもしれない。一世代前の人達とは、年代差以上に異なる幼児体験をした短い期間であった。緊迫感の中に漂う礼節を守る人々の情、それを反映したかのような空気や空、言葉で表現出来ない情感が湧き上がる。

 

 この頃の夢を今もよく見る。どういう訳か必ず広い運動場か公園のような所の隅の方にいて、なぜか懐かしく周りを見渡している。空は淡い青と白い雲が不思議に混じり合って穏やかである。戦争の中にいるという緊張した感情が穏やかな周囲の状況と不思議に釣り合って、少し気怠い感じもしている。周りには誰も見あたらないが、遠くに人の気配がある。もうこの日は来ない、と遙かな時に胸が痛くなるような思いを馳せつつ目が覚めるのである。 

 

 今考えると不思議なのだが、昨今ドラマなどでよく見られるシーン、出陣壮行会というものを見たことがない。もう早い機会に大方の赤紙招集が終わっていたのだろうか。私の義兄は、特攻隊を志願していたと語っていた。おそらくこの頃のことだろう。終戦で出動することなく終った。

 

 空の状況は一変し、攻撃機が飛び交う日々が増えて行った。今や、しっかり認識できるB29の唸るような響きが近づくと、低空に敵機が現れ、どこかで攻撃が始まり、日本の小型機が応戦に飛んでいくという感じだった。米機にはB29の小型攻撃機もあったとのことだが、当時は詳しくわからなかった。

 

 短い期間ではあったが、津では、空襲警報のみで何事も起こらなかった。

 

 しかし、暖かくなり始める頃、状況は一変する。本番はすぐにやってきた。津市への局地的な攻撃が始まり、今日は阿漕(あこぎ)、明日は安東(あんとう)といった調子で、被害の報告がもたらされた。意外にも爆撃は郊外の方から徐々に市街地へと近づいてきたようだった。夜、避難をしているあたりも安全地帯とは言えなくなってきた。新しく焼夷弾というものが開発されたという話が伝わり、木造建築を焼き払う夜間攻撃が始まるということだった。軍需工場のみならず一般市民をも狙い、それは全国的に拡大して行くのだった。

 

 先にも書いたように、我が家の東、数百メートルには軍需工場があり、それが狙われることはもう必然だった。昼間の攻撃目標であった上、市街地への焼夷弾ということになれば、24時間休んでおれない。

 

 米軍は詳細に全国の軍需工場の場所を探知し尽くしたのだろう。それらを多彩な方法で次々に攻撃していくプランだった。日本の軍がどれくらいその科学力を知っていたのか?疑問である。聞く耳も持たなかったにちがいない。

 

 そして、その時は急速にやってきた。警戒網をかいくぐって。

 

 わが家の南には少し庭があって、当時のことだから遮るものなく東の空を見渡すことが出来た。その視界に、突然米軍機が現れたのである。けたたましく警報が鳴りわたる。防空壕に駆け寄る間もなく、東の空に飛行機が見え、思わず全員立ちすくんでそちらを眺めた。軍需工場より向こうの方であり、直ちにこちらに来る様子はない。その全体像がはっきりと見え、機影は遠く近く重なり合い、円を描いて空中戦を展開しようとしていた。初めて見る光景に、本で見た空中戦とはこういうものなのか、と私は見入った。日本の小型機が果敢に応戦しているようで、何度も旋回しつつ煙を吐いて視界から消えた。ほんの 1、2分程度のことだったと思う。どちらがやられているのかはわからなかったが戦いは続いているようだった。急いで防空壕に駆け込む。少し間があって何かが庭に降り注ぐ音がした。それが止んでしばらく、警報が解除され、外に出ると、庭にはおびただしい数の金属片が落ちていた。家を貫通するほどのものではなかったが、明らかに戦闘機のものであり、2~10センチ足らず、厚さは5ミリくらいの、一つとして同じ形のないものだった。どれも不規則に捻られたように曲がり、熱で焼かれたためか、丁度真鍮が七色に輝くような光を放っており美しく感じたが、縁はぎざぎざに尖って危ないものだった。熱いのですぐには触らないように注意された。他に厚いガラス片のようなものも落ちており、ほのかに化学的な気持ちのよい臭いがした。防弾ガラスの破片だったのだろうか。普通のガラスと違って縁は鋭く切り立っておらず、溶けた様子はなかった。戦後も瓦礫から時々見つかり、友達と面白がったものである。

 

 母が破片を拾っておくように言って、私は大喜びで拾い集めた。それも宝物のように大事にしていたのだが、思い出した時には無くしてしまっていた。津市爆撃記録によると、6月26日、軍需工場爆撃とある。その日だったのだろうか。工場はやられなかったが確かにその空中戦のあと火事があったと思う。記録を紐解くと、3月12日から爆撃は開始され、爆弾投下以外にも一般人への機銃掃射、近鉄伊勢線(戦後しばらくして廃線となった)への機銃掃射などが行われ、間をおいて7月まで8回に亘って続けられたという。当時は長く感じたが、僅か10日足らずのうちに様々なことが起きていたのだった。

 

 東京は3月のいわゆる大空襲以前からすでに度々空爆を受けていた。実は、津市も同時期に断続的な爆撃を受けていたのだ。父母がそのようなことをどこまで認識していたか確かめなかったが、国の情報は管理され、結果は正確には伝えられていなかったであろう。

 

 市街地が極めて危険な状況になって、何時私たちの一角に敵機が襲来してもおかしくない状況がひしひしと実感となって顕在化してきた。逃げる時が来た。父母共に出身は津市なので、遠くの田舎には身を寄せるところがない。とりあえず、亡き兄が最後の時を過ごした母の実家が最有力候補地となり、一家で移ることになった。そこがどれくらい安全か、もう以前ほどの保証はなかったが、運を天に任せるほかない。大急ぎで荷物の整理が始まった。

 

 その日は朝から近所中が慌ただしく、我が家も大急ぎでいろいろな準備をしているようだった。今日は空襲があるという確かな情報がもたらされたのであろう。午前10時頃だっただろうか。空襲警報。いつもと違う差し迫った感じだ。この日は全員即座に防空壕に入った。蒸し暑い。息を潜めて耳を澄ます。やがて激しい爆撃音が響き渡り、かなりの時間続いた。防空壕は安全だと皆思っていたが、考えてみれば、直撃を受ければひとたまりもない気休めであり、豪の中で亡くなった方も多くあったことを後に聞かされた。爆音は以前よりずっと近い距離で響きわたっている。真上ではないようだ・・・ドキドキしながら時を待つ。

 

 ようやく静かになり警報が解除になった。先ず父が、続いて全員が豪から飛び出して驚愕した!周囲に舞い上がるもうもうたる砂塵と無数に散らばる細かい残骸。周り一帯の風景は一変し、あらゆる所に瓦等が粉々になって散らばり、家の中身が吹き飛んでいる。目の前の我が家は形こそ保ってはいるものの、ガラス戸や襖などはすべて外れ落ちて散らばり、海から来る東風が家を吹き抜けて、埃と砂混じりの煙のような塵がもうもうと家の中に舞い上がっていた。その流れがはっきりと見て取れる。ついに軍需工場が爆破された。東天に舞い上がる黒い煙とその中に見え隠れする火焔。その爆風の瞬間的な直撃はものすごいものだった。

 

 父は覚悟していたのだろうか。あまり大声は上げず、いくつかのものを拾い集めている。母も、取り乱すことなく、大急ぎで荷物をまとめているようだ。外から裏庭まで見通せる我が家を見て、私はさすがに動転し、一瞬、どうやって元に戻すのだろうと思ったりしたが、ただちに家を出ることが決定した。ついにその時が来たのだ。

 

 7月だった。真夏ではないが梅雨明け前の雲がまだ空に残る薄晴れの日であった。「これからお婆ちゃんの所に行く」という母の言葉を、私は一時的なものとして聞いていた。タンスから少し上等な洋服をいくつも取り出して母は幾重にも私に着せた。長袖の洋服に、ズボンを3枚も重ねて履き、身動き取れないほどの格好になり、水兵帽をかぶった。不思議に暑いと感じなかった。やはり差し迫ったことに緊張し、代謝の感覚が日常と違っていたのだと思う。心拍数が上がり息が詰まりそうになることがよくあるが、明らかにそうなっていたに違いない。

 

 閑話休題。突然、この稿を書いている1ヶ月ほど前の音楽会を思い出した。小泉和裕氏の悲愴交響曲を聴いたのである。彼の演奏はいつもそうだが、この日は、最初の音から最後まで心が一点に集中し、一瞬も身じろぎできないくらいの緊迫感に包まれた。最後の楽章で遂に私の心拍数は最高度に達し、息が出来ないほどとなって身体の震えが止まらなくなってしまった。私だけかと思って妻に聞いたところ全く同じだったという。音楽の真の力はものすごいものだ。

 

 家族全員、用意が調い、飛んだ戸を嵌め直して一応鍵を掛け、父はリヤーカーに多くの家財道具、味噌や食料などを積んで自転車で引き、姉を乗せて一足先に出かけた。後を追って母が私を連れて出るのだが、その時、隣の菓子屋のおじさんが出てきて別れを言い、私に、セロハンをガラス代わりに入れた眼鏡を作って掛けてくれた。何か嬉しく、そしてせつなかった。「てるゆきちゃん、元気でな」「Mさんもお元気で」と母が言って出発した。おじさんもすぐに実家に行くという。あたりにはもう人はいなかった。

 

 私の手には、橙色の布が張られた、厚紙制の小さ目の真四角な手提げ紙入れが、しっかりと握られている。切り紙用の色紙と鋏が入っているのだ。唯一の宝物である。母は結構な大荷物を抱えて和服を着、どう思い出しても夏の装いではなかった。家から南下して2、3里ほどの道のりを歩いて行くのである。いつもは市街地を真っ直ぐ行くので50分ほどで着く。しかしこの日、母は少し違ったルートで迂回し市街地を避け、半田(はんだ)という地域の山道を選んだため、2時間以上を要した。市街地の攻撃を恐れたためである。私は文句一つ言わずしっかりと歩いた。こんなにも着ぶくれているのに暑さを感じなかったのは、今何が起きているかを知っていたためだ。山道といっても険しいものではなく、水田などもあり、人家もある居住地域であるが、その日は誰も通らず人気が感じられなかった。静かであった。

 

 ずっと後で聞いたことだが、実は何人かの死骸(むくろ)が溝や草むらに横たわっていたのだという。母はそれに反応を見せず、巧妙に私の歩く方向を指示したため、私は何も気付かなかった。あの穏やかな自然の中にそのようなことがあったとは今でも考えられない。その頃はもう水田に爆弾が投下されたり、山地も例外ではなかった。おそらく厳密に爆撃範囲が設定されていたわけではなく、誤爆や流れ弾も多かったに違いない。今のように精密な電子機器があったわけではないから、確信的なもの以外はパイロット任せだったのだろう。要するに私の一家は運がよかったということに過ぎない。

 

 私は全行程を休むことなく、疲れた等とは言わずに歩き通したので、皆に随分褒められた。確か途中でおにぎりを食べお茶を飲んだように記憶する。この時があることを予測して、朝早くに用意したのであろう。陽は出ていたが身体は何も反応しなかった。

 

 そして無事祖母の家にたどり着き、既に着いていた父や姉と合流した。母の妹も来ており、母の弟夫婦を含めて8名の避難生活が始まったのである。それが何日だったのか、記録と照合しても確定出来ないが、7月も末にさしかかろうとしつつあったことは確かだと思う。

 

  まずは全員一息つき、大勢でそれなりに楽しい何日かを過ごした。お婆さんとはいえ祖母もまだ若かったし、母も30代半ば、実は身重で臨月近かったのだが、皆しっかり立ち働き活気があった。ただ、何事も戦争一色。この郊外の一隅ももはや安全ではないというのが全員の共通認識であり、巷の判断でもあったので、毎日、深刻に先行きの話し合いが行われた。

 

 その危機を乗り切るために、やがて母はもう一働きすることになる。

 

 多数の兵士が海外の戦地で命を落とし、戦う武器も持たない市民もまた、内地にあって死んだ。各地に人々の無念な思いが立ちこめる。津も末期症状を呈していた。