第1章 

戦争の記憶 その4

  野田暉行

 祖母の家は、畑がかなりあり、水路があり、水の湧く小さな池もあって、作物はよく育ちいろいろと自給できたので、大勢の食事も何とか確保されていた。海が近く裏の畑を真っ直ぐ突っ切れば10分くらいで海岸に出ることが出来た。そこでは日によって地引き網漁が行われていて、引き網に参加すると魚をもらって帰ることができた。朝、海岸に「本日地引き網あり」の合図として黒い球が松にぶら下げられ、海岸一帯の人はそれを見て出かけるのである。漁村ではないので、不定期であり、それに、戦争下でどのように行われていたかはわからない。

 

 津の海は関東大震災で隆起して遠浅となり、100メートル程沖まで背丈に達しない深さの海が続く。最適の海水浴場だった。白砂青松、全国的穴場として、京都あたりからやってくる人も多かった。40年ほどよい時代が続いたが、その後、隆起が元に戻り、今ではその面影はない。

 

 近くに結城神社、通称「結城さん」があり、松阪まで行く近鉄伊勢線がその前にも来ているのだが、機銃掃射を受けてもう動いていない。7月も終りが近くなり、総攻撃があるという情報がもたらされたのだろう、予断を許さない状況となり、人々の心が凍えた。静かだった表の通りが行き交う人でざわめき落ち着かない。ここもやられるのではないか、という現実がそこまで来ていた。とにかく逃げよう、ということで意見は一致した。でも遠くへ行く足も身よりもない。一体何処へ?

 

 そしてついに、今夜が確実に攻撃日だという日がやってきた。運命の夜、全員は総支度をした。命だけは守ろうという決意で、とにかくどこかに避難するほかなく、行き当たりばったりの行動だった。思い出すと、今もその時の感情が蘇り、身体が堅くなる感じがして震えるのを覚える。

 臨月を迎えた母は、気丈に全員を指揮し、手はずを整えていた。先ず最も大切な私を籐の乳母車に乗せた。乳母車が何故あったのかわからないが、新しく生まれてくる子のために運び込んでいたのか、祖母の家に保存されていたものなのか、とにかくかなり大きなものだった。私は底に頭を抱えてうずくまりじっとしていた、一言も喋らず周りの様子を聞いていた。全員とても慌て、あれこれ言いながら、持ち物を集め、次々に乳母車に積み始めた。先ず布団を私の上に!かなりの重さを感じる。もう夜の帳が降りていて全員焦っているのだ。父はリヤカーに荷物を載せて用意しているようだ。私の上にいろいろなものが積まれていく。何が載せられたのかは私にはわからない。じっと動かず息を潜めていた。

 

 積み込みが終わり、全員の緊急相談が始まった。

 

「何処へ逃げるの」先ず殆ど全員が発言する。誰かが「海岸へ行こ」と言う。即座に母が却下する。「あそこは松林で一方が塞がれてるから、火がついたら逃げ場が海しかない。死ぬ。」母の反対に応えて「そうやな。姉さん、川は」妹が提案した。「あかん!川は風で火が吹き抜けて行き場がない。」と母。別の叔母さんが「それでは結城さんの森は」「そんなとこ、森が燃えたら、あんたどうするの。焼け死ぬだけや。」母の却下は続く。「肥たごにつかろうか。」と、叔母さんからさらにとんでもない提案が。今は見られないが、田畑には当時肥料用の汚穢貯めがいくつかあった。「そんなことは最後の手段。」母はあきれて取り合わない。皆、思案に暮れて時間が経つ。その時、妹の方の叔母さんが私のことに気付いてくれた。「ちょっと、暉行ちゃん大丈夫?」「ウン!」と私。ようやく、皆、私を思い出し、顔を出して座らせてくれた。

 

 その時代、殆どの家の竈(かまど)周りはタタキの広間になっていて、そこでいろいろな用がこなせる。上には天窓があって天井は少し斜めになっている。これらの会話もそこに乳母車を置いてのことだ。どういうわけかいつの間にか父と姉の声がしない。後で聞けば、この相談がまどろっこしかったのか、自分について来いというつもりだったのか、先に出てしまったのだそうだ。なんと松阪まで歩いて逃げ、翌朝無事帰り着いた。皆動転しており、時間が迫ってきていて、気は急(せ)くばかりだった。

 

 相談は続く。「そしたら姉さん、どうするの。」妹の詰問に「畑へ逃げよ。カボチャ畑とか。」「エー!そんな怖い。弾に当たったらどうしなさんの。」と叔母さん以下全員が。「畑は見通しがきく。見とったら様子が分かるし爆弾が落ちてきたら避けられる。布団をかぶっとったら、弾は貫通せん。それに周りは青物やから火が燃え広がらん。そうしよ!」強い一言に半信半疑ながら反論の余地がなく、全員同意して家を出たのであった。

 

 真っ暗な道を急ぎ足で、海にやや近い畑に向かう。たしか結城さんの周りを回って南の方向に出たのだと思うが、そうでなかったかもしれない。ただそこから津市街が遠くに望めたので阿漕浦の方角に行ったのだと思う。

 

 何処も真っ暗で不気味だった。畑に着いて乳母車から降ろしてもらい、全員6名、母の指示のもと、畑の真ん中に茣蓙(ござ)を敷き、座って布団をかぶり、端をそっと持ち上げて、奧から街の方向を覗き見る。見渡したところ畑にいるのは我々だけである。このような奇妙な結論に達した人はいなかったようだ。目が慣れてくると不思議に星明かりで周りが見えてくる。

 間もなく遠くに戦闘機が現れた。激しく行き交う探照灯。意外にも機影がよく見える。機体にある小さなランプのせいだったかもしれない。遠くでいよいよ爆撃が始まった。細かく飛び散る火花の激しさ。明るさ。燃え上がる炎の重なり。不謹慎だが、二度と見られない壮絶な美しさだ。あれは高等学校のあるあたりだと叔母さんが教えてくれる。激しい音が響いてくる。攻撃機は3、4機程だったろうか。間断なく落とされる爆弾と焼夷弾。漆黒の闇にその光は異様な輝きを放っている。突如、学校が火と共に崩れ落ちるのが見えた。そして、またたく間に市街地も広範な火に包まれた。

 

 私に寄り添うように叔母さんが隣にいてくれ、並んで見守っていたのだが、叔母さんは手を合わせ「あの学校も燃えていくわ。最後や。一緒に拝もう。」と私を促し、私もじっと手を合わせた。身体が震える。

 

 津市が焼き尽くされるのにさほど時間はかからなかった。終わったのかな、と思った時、驚いたことに、攻撃機が進路を変え我々のいる方向に向かってきたのである。帰路に就いたのだろう。じわじわとかなり近付き機影がはっきり確認できる程になった。機体を見上げる角度になり「こちらへ来るぞ」と声が上がる。その時、パーンという大きな破裂音がし、斜め前方の上空に火花が散った。これもまた美しいとさえ感じる火の散華。焼夷弾である。大きな形と強さは予想外だ。もっと小さなものかと思っていた。ばらばらに弾ける形が見えた。かなり近い。それらは八方にかなり広く不規則に拡散して降り注いだ。そのうちの一つが我々の前方200メートルくらいの所に落ちたのである。強い火が畑の作物に燃え移り、シュシューと激しい音をたてて1メートルほど横に広がった。「アアー!」と全員が叫んで立ち上がる。しかし、母の言うとおりだった。それ以上には燃え広がらず、スーッと消えたのである。こういうことだったのか・・・

 

 それを最後に攻撃機は立ち去っていった。幸いここの近くの海岸には飛び火はなかったが、松は最もよく燃える木である。焼夷弾の破片がそこに落ちていれば消さない限り燃え続けただろう。我々はずっと離れたところに陣取っていたので逃げ場の心配はなかったが。

 

 やっと全員我に返り、無事を噛みしめながら帰路に就いた。結城神社の奧深くが深紅の炎に包まれ暗闇に浮かび上がっていた。それはぞっとする光景だった。全く無音の静けさの中、奧の一箇所がじっと燃えている。怒りの火のようだ。「あ、燃えとる。」思わず言った私の言葉に、母は「うん。」と呑み込むように答えた。焼夷弾の破片はこんな所にも落ちたのだ。全員静かだった。祖母の家の一帯は壊滅を逃れた。聞くところによれば、別の場所では、海岸や川に逃げた人が大勢死に、直撃を受けた人も多かったという。津市外の殆どは一夜にして焼け野原となった。

 

  翌日昼過ぎ、父が家の焼け跡を見に行こうと言って、私を自転車に載せて出かけた。夏の日差しを感じる暑い日だった。人は少なく、歩いている人はよりどころなくうつろで、さ迷っているようであった。

 

 祖母の家は阿漕海岸に近い八幡(やわた)という地区にあり、国道23号線から入ってしばらく海に向かって進んだ一帯なのだが、その区域は殆ど被害がなかった。今も昔の面影を残している。市街区との境に古い焔魔堂が建っており、それも現在、昔のままである。

 

 その見慣れたところを通り市街区に出ると、風景は一変した。見渡す限り瓦礫の山が広がり、いつもは見えていなかった視界が目に入る。デパートのビルが傷だらけになってようやく建っている。いくつか焼け残った地域や建物があるのは不思議である。何処をどう走っているのか私には全くわからなかったが、父が「うん、ここやな。」と言って自転車を止めた。確かにコンクリートの土台跡があるが、周り一面同じような感じがひしめき合っていて、何でわかるんだろう、と思うばかりだった。そこに立った感触を忘れることがない。何か管のようなものがコンクリートの土台から出ていた。ここで防空壕なんかに入っていたら命はなかった。空の白い雲を通して降り注ぐ太陽がむせかえるようだ。ただ、その年は、涼しい夏だったような印象が残っているのは、精神的なものかもしれない。

 

 この空襲以降、もう爆撃はなかった。全国的に、これだけのことをしても降伏しない日本に業を煮やしたにちがいない。月が変わって原爆が立て続けに投下された。世界の誰も知らない未知の恐怖。比らべるすべもない悲劇。でも国民にはすぐにそれが何かを知らされなかった。国が正確に把握しきれなかったのかもしれない。もちろん子供にわかるはずもない。

 

  何気ないことが、痛くなるような感情とともに蘇る。さんさんと降り注ぐ夏の太陽、それを浴びて畦に揺れるとうもろこしの群、よくある光景が何故このように感動的に思い出されるのだろう。

 

   と、ここまで書いて、インターネット上に津市の被害状況について書かれた報告書を新しく発見した。山口千代己さんという方が昭和63年に書かれたもので、「悲惨だった三重県の空襲」というタイトルで四日市市の空襲、津市の空襲にも触れておられる。

 

 少し引用させていただくと、なんと三重県で最初に本格的爆撃を受けたのは宇治山田市の伊勢外宮(げくう)であったという。これは全く知らなかったことでたいへん驚いた。

 

 「7月28日から29日にかけての空襲は、アメリカ軍が今回の戦争で初めて使用したM47焼夷弾によって、死者 1239名、負傷者は数千名をだすほどで、市民はほとんど無防備な状態でした。」とある。新焼夷弾が三重県で初めて使用されたということにも驚かされる。それに、7月下旬というぼんやりした記憶がはっきり特定できた。

 

 「桑名市、鈴鹿市、松阪市にも空襲があり、県下全体の死傷者は 調査結果では6500名余、実際にはもっと多かったのではないか」と書いておられる。

 

 更に、その頁に貴重な1枚の写真が添えられている。津市の空爆後のものである。このような写真を見るのは初めてで、私には特に別格のものである。

 

 言葉に出来ない感情の原点がここにあり、空や太陽、空気、そして思いが、その日そのままに蘇る。おそらく読者には、よく見る破壊後の風景に過ぎないであろう。それは致し方ない。ここにその写真を掲載させていただくのを撮影者、太田金典氏、にお許しいただきたい。

  

 津市を南部から北西方向に見渡していると思われるが、よくわからない。そうだとすると、見えている森は、歩いて逃げた半田の山。祖母の家は、この写真の左をずっと入った下辺り、私の家は右上の向こう辺りにあることになる。あまりにも見慣れぬ風景で、住んでいた私にも確信をもって見当をつけることが出来ない。中心を走る道路は国道23号線である。

 

  殆どの家にはまだカメラがない時代だった。もちろん我が家にもなく、写真は一枚も残されていない。

 

 私の記述はあくまで子供の目と耳、感覚で捉えたもので、データを正確に伝えているものではないことをあらためてお断りしておく。

戦争の記憶 その4 野田暉行 Teruyuki Noda Memory of War
©悲惨だった三重県の空襲