第1章 

戦争の記憶 その5(補遺) 

野田暉行

 

 今にして思えば紙一重の命拾いだった。その時はただ夢中で、こんなものなんだと思っていたが、置かれていた運命はそう容易(たやす)いものではなかったことに、気付かされる。

 

 すべてを失った状態になったとはいえ、久しぶりの安寧と安眠を取り戻し、これまでとは違った日常が戻りつつあった。

 

 梅雨が明けたのだろう。澄み切った青空から燦々たる夏の陽光が 降り注いだ。庭の木々や作物が生き生きとそれを謳歌し、私に印象づけた。空襲警報もなく世の中は暫時静けさを取り戻した。少なくとも祖母の家の一帯は穏やかになった。母は出産が間近となって少しそれに専念できることになったし、大家族は、時々諍いはあったものの、協力し合って毎日を過ごしつつあった。

 

 ある日、叔父さんが近所の養蜂家から蜂蜜をもらってきて飲ませてくれた。そのなんという美味しさ!私には初めての経験で言葉を失うほどの驚きであった。またある日、やはり叔父さんが鰻をもらってきてくれ、全員で食べた。これもまた生まれて初めての美味しさ。たとえようのない感動だった。

 

 なんといっても食の確保は一大事であり、その中でのこういった思い出は消え去ることがない。やがて、弟が生まれ、私には理解できなかったが、独特の取り決めがあるらしく、一度橋の下に置き去りにし、それを拾い上げて迎え入れるという儀式が行われた。名前を決める相談もじっと聞いていた。

 

 その数日後のこと、皆がラジオの前に集まり耳を傾けている。天皇の終戦宣言であった。私はそれを眺めていただけであるが、皆、さしたる反応は示していない。母は終結にほっとして何かを言ったが、気持ちは全員同じだったと思う。その日の晴れた天気が私には最も印象深く残っている。そしてその後、皆の動きが心なしか生き生きとし、活発になった。

 

 しばらくして、多分栄養不足とストレス、戦争と出産の疲れからだろう、母が、三ヶ月ほど寝床の上で過ごす日が続いた。自己診断で十二指腸潰瘍などと言っていたが、そうではないようだった。

 

 そして今度は父が、足に違和感を覚えるようになり、次第に痛みが増して、腕にもその症状が出始めた。今思えば出兵地での落馬と寒さが遠い要因であることは明白なのだが、当時はそこまでは考えず、リューマチだと思いこんでいた。今ではリューマチが様々な症状の総称となっているが、その頃の医師は一つの病気と捉え、様々な治療を試みた。全く効き目はなく何をやっても駄目だった。近鉄伊勢線が開通し、それに乗って松坂の病院に度々通い、私も連れて行ってもらった。電車が間近に見られ、観察に暇がなかった。

 

 店はまだ再開できず、ぐずぐずした毎日が続いていた。何とか家を建てなくてはという話し合いが父と母の間で続けられていたのであろう。12月にささやかながら焼けた家と同じくらいの家が建った。2階はなかったが、周囲がすっかり開け布引山脈の麓まで見渡せる環境は、これまでにないものだった。まだまだ周りに家は少なくほとんどは空き地になっていた。

 

 家を建てる光景に、多くの人が「何でこんなに資材不足の時に」と批判的意見を述べたらしい。確かにその通りである。商売という必然的条件はあるにしても、終戦から数ヶ月での再建は無謀と言えば無謀だ。父も少しそういう意見だったと聞く。しかし母は方針を譲らなかった。母の意見は、来年になれば多くの人が再建を始める。そうなると資材が高騰するのは必定だ、と言う理屈だった。確かにそれは的中し、翌年には材木不足で多くの人が、質の悪い木を高値で買わされることになった。やがてそれも尽き、いわゆるバラックで凌がなくてはならない家も出てきたのだった。

 

 新居には、戦前無かった風呂が設置された。まだ給湯設備などない時代、井戸から水を汲んで釜の下で火を燃やす、いわゆる五右衛門風呂ではあったが、風呂付きというのは庶民の世界ではまだ珍しく、近所の人が度々入りに来た。堅固な作りで、風呂釜以外のところは全面タイル張りになっていたが、釜もタイルも、進駐軍(戦後占領下に滞在したアメリカ兵)が使っていた物を、父が安く譲り受けてきた再利用品であった。

 

 よく水汲みをやらされたものだ。井戸の蛇口に継ぎ手をつなぎ、風呂場の方に回して小さな窓口から差し込んで水を入れる。120回くらいだったか、どうだったかもう覚えていないが、ポンプを上下して満たす作業は重労働でありながら結構楽しかった。

 

 こうして年末には引っ越しが終わり、昭和21年の正月を新居で迎えた。暮のクリスマス頃、当時、その行事はほとんど誰も意識になかったが、繁華街に行き本を買ってもらった。嬉しかった。すでに街は賑わいを取り戻しつつあり、今思うと日本人はずいぶん適応力が早く勤勉であると、つくづく感心する。

 

 祖母の家では、年末29日に餅つきを、2月3、4日頃にかき餅つきを、5月頃には柏餅のような団子作りを、毎年きちんとやる。親戚一同が、すなわち何処へ逃げようかと相談していたあの全員が集まって賑々しく行うのである。実に楽しい行事であった。終戦の年も餅つきはあり、正月には一通りの縁起物食品は揃っていた。思えば神に感謝すべき有り難いことであった。

 

 全員の無事息災を願い、母が神棚に御神酒を供えていた元旦の朝のこと、突然弟が気を失って倒れた。ほんとうに何の前触れもなく突然倒れたのである。父母、姉はもちろん私もすごく動転した。駆けつける医者。でも理由がさっぱりわからない。注射で意識は取り戻したが、それ以来、ときおり遠くを見つめては、しばらく長い呼吸を繰り返す症状が出る、ということが続いた。どの病院でも原因はわからず、治療も何の効き目もなかった。10歳になる頃それはいつの間にか無くなり、全く後遺症もなく治ってしまった。不思議なことが起こる一家である。

 

 父の足はその後ますます悪くなり、やがて右足の膝が曲がったまま固着し一生そのままになってしまった。その足で商売をし、家族を養ってくれた。

 

 先のことになるが、私は、父母の期待と予想に反して、我が家では考えられない縁のない世界へ身を置くことになってしまった。そのことにも結局は納得して、それを支えるべく一生懸命働いてくれた。母も私の未来を信じ、共に店を一生守って働き、大学を卒業するまでの間、親の義務として援助し、その後も働き続けた。感謝している。

 

 私は5歳になった。このように幼少期を過ごした私には、西洋音楽に触れる機会はなかった。ピアノを習う時間など考えられない毎日だった。母は勉強に力を注ぎ、戦時中は、息子が陸軍大将になることを夢見ていた。その夢も戦争が終わって破れ、私にとっては有り難いことであった。

 

 戦後が始まり、世の中はまだまだ混沌としているものの、これまでにない自由の気持ちがいっそう漲(みなぎ)り、人は働き、楽しむようになった。

 

  そんな中、どういう関係で知り合いだったのかは知らないが、かなり離れたMさんの所で素人バンドの練習をやっており、母は私を連れてしばしばそこに出かけていた。週末にやっていたと思うが、別に母が演奏するわけではない。そのうち姉も一緒に出かけ始め、やがてアコーディオンで演奏に加わるようになった。「ホワイトローズ」という精一杯洒落たつもりのネーミングで、なんだかおかしかった。

 

 ある日、ドラムの人が休んだため、私が日頃の見よう見まねで少し演奏してみたところ、結構サマになり一同感心。母は少し得意げだった。もちろんすぐにやめたが、なんだか易しいことのように思えたのだった。

 

 そうこうするうちに演奏会をやろうということになり、私が歌を歌うことになった。ボーカル担当として2曲を歌った。近くの公民館のような会場と、久居の会場2カ所で行われ、客は超満員で皆沸き立っていた。評判はよかった。今やもう見る影もないが、その頃、私は非常に美声のボーイソプラノだった。音程もよかった。

 

 でもこの経験はそれだけとなり、誰もそれを私の音楽性に結びつける人はいなかった。私自身も何の意識もなかったが、アコーディオンに急に興味が湧き、楽器を買って欲しいと頼み込んだ。姉の弾いていたのは借りていたもので返してしまったからである。早速、父が誰かに聞いて一つ見つけてきてくれたが、それはバンドネオン風のボタン式のもので、弾くのに一寸したテクニックが必要だった。一つのボタンが行きと帰りで半音違う音を出すのである。左手のボタンも、的確な和音を連続で鳴らすには音域が狭すぎて工夫が必要だった。マスターするのにさほど時間はかからず、周りの要望に応えて童謡や流行歌などを弾きまくった。一度聞くとたいていすぐに弾けた。

 

 幼稚園に行くようになり、そのことがどうしてか知れ渡って、独奏をステージで皆に聞かせることになった。何を弾いたか全く覚えていない。記憶にあるのはステージ上の自分の姿のことばかりである。

 

 幼稚園は市川先生という優しくしっかりした、 少し年を取った先生のクラスで、いつもとても可愛がってもらった。卒園時には総代として賞状を受け取ったが、リハーサルで園長役の市川先生に向かって歩く練習ばかりしていたので、本番でも横に並んでいる先生に向かって曲がって行ってしまった。母は最初驚き、やがて笑い出した。先生も出席者も全員笑った。

 ボタン式アコーディオンに限界を感じ、鍵盤式のものを買って欲しいと切願したところ、また父が見つけてきてくれた。中古ではあったが当時の価格で800円、雑誌等が10円で買えた時代だから結構な値段だったかもしれない。このアコーディオンとはその後長い間楽しみを共にした。そして今、引退して側に居る。                                                                            (この項終り)


戦争の記憶 その5 野田暉行 Teruyuki Noda Memory of War
©Teruyuki Noda (中央ドラム右=作者、右端後ろ=姉)