第2章

小学校の思い出 その2

野田暉行

 1学年30数人のクラスがA、B2つあり、メンバーは殆ど入れ替わらずAB交互に6年まで持ち上がる。私は1Aクラスで、男性の紀田先生が担任だった。優しくしっかりした先生は、私の特性をすぐに見抜き尊重してくれた。一つは汽車の絵、一つは外へ出たがらないことだった。

  今後の話のこともあるので、先ず宣言しておくが、母は教育ママでは決してない。父ももちろん。でも子供のやることに常に熱心であったことは確かだ。私が外に出たがらず、友達ともあまり遊ばないことに関して、母は気にしており、早速先生に相談に行ったのだろう。どのような答えだったのか知らないが、母のやったことは、突然野球の用具を買ってくることだった。何人分かのグラブ、ミット、そしてバットにボール。友達とこれで遊びなさい、と言うのである。母自ら、近所の子供達に声を掛けて始めたのだが、皆、新しい用具に大喜びだったが、どうも盛り上がらない。

  今でこそ野球に興味があり、時々見に行ったりもするし、内容的にも多少微妙なこともわかってきたが、何も出来ないことはその頃から全く変わらない。付き合ってくれた友達にもすぐにそれはわかり、時を措くことなく作戦は失敗に終わった。 

 

  一方、絵の方は、進駐軍用の英字新聞見開き全面に描いた汽車を、先生は大いに評価してくれて、教室正面に長い間飾ってもらった。

 

はじめて夏休みを体験し、七夕から終了式、そして海水浴に至る、これまでにない夏にワクワクしていたが、一方で、計算ドリル、漢字演習を毎日欠かすことなくやり、絵日記、工作などの宿題もたくさんあって、遊んでばかりはいられなかった。

 母はわがことのように熱心に付き合った。

 

貼ってあった絵ではないが、その頃のもの)  

簾(すだれ)を通してやってくるそよ風は気持ちよく暑さを感じなかった。当節は、締め切って冷房に浸りきりだが、決してあの頃のようなさわやかな感じでもない。これは進歩なのかどうか?         

午前中、 集中的に勉強をこなし、午後は自由にいろいろなことをしたが、海へ行くのは原則として午前中だった。波が穏やかで日差しの具合もよい。庭の畑から夏みかんほどもある完熟トマトをもぎ取って、お昼に、海の家で食べたのは最高だった。

 畑には(と言うほど広いものではないのだが)実に多種多様なものが作られていて、八百屋に行く必要は全く感じないほどのものだった。サツマイモ、ジャガイモ、茄子、キュウリ、カボチャ、トウモロコシ、トマト、ウリ、何種類もの菜、インゲン、莢豌豆、落花生(これは毎年の土地改良が必要で連作は出来ない)等の豆類、ヘチマ(化粧水とタワシ用に)などまで。そして唐辛子。まだ忘れているものがありそうだ。スミの方にゴミ捨て場がありそこに捨てた柿の種が芽吹き、中学3年、市街整備で100メートルほど引っ越す頃、なんと実が成った等ということもあった。まさに柿8年。渋柿ではなかったが美味しいものでもなかった。

 唐辛子については一言書かねばならない。実はこれは伊勢唐辛子(後年伊勢ピーマンと呼ばれた)という特別種で、現在はもうないと言ってよい。いわば絶滅種である。全国的認知を得られなかったために、時代と共にすべて新しいピーマンに取って替わられた。伊勢唐辛子の味を知らず唐辛子を語る事なかれ。今の洋風ピーマン一辺倒の方々は哀れである。

 最も近い姿はシシトウだが、味も香りも感触も全く違う似て非なるもの。その美味しいさは言葉で表現できない。10本もあればご飯の2杯はいける。

 食べさせたいと思う、もう今はなき伊勢限定のものが他にもいくつかある。

 津市の海岸近くの店でしか作っていなかった蒲鉾。噛んだ時に堅くなく、何とも言えない快感が広がり自然な魚の味とほの甘さ、そして香り。蒲鉾はそういうものだと思っていたら、実はこれも何処にもなく、東京に来てがっかりしたことの一つ。

 餅を一臼搗き終わる時、少し臼に残してそこに醤油を入れて更に二度搗きをする。醤油が適度に煮えて餅と一体になる。その感触と美味しさと来たら。これは、今でもやれば出来るのだが何処でもやってない。私自身は残念ながら出来ない。伊勢には名物「赤福」があり、本店で味わうそれは絶品だが、これはもっと生の食欲そのものである。

 

 そして我が家で搗いて作るあられ。この頃伊勢ではいくつかの店が復活させて販売している。殆ど同じようだが、実はどれも少し違う。あられは熱い湯で溶けるほどにして食べるのが最高に美味しいが、その時少しでも芯が残っていると駄目である。大量生産で機械搗きをしたり、餅米の質を落とすと実現しない。木製の臼であること、大きい杵であることと、手返しという人的作業であることが必須条件であり、それによってのみもたらされるものである。

 

脱線を元に戻そう。

 

 前にも書いたように、津は遠浅の海で、満潮にならない時刻を見計らって出かけていたのかもしれなかった。

 海は7月いっぱいで終わりである。8月はもう誰も行かない。海の家もたたみ始める。土用波はなんだか寂しく冷たく海の表情も暗い。今では8月でも多くの人が出かけるが、いつからそういう習慣になったのが不思議でならない。

 

 でも私は泳げない。野球といい、スポーツ苦手人間である。作曲家の中田喜直氏は、作曲家はスポーツが出来なきゃ、というのが持論で、私も言われたことがあるが、ほんとうにスポーツが得意な作曲家なんていたの?ベートーベンやブラームスが泳いだりサッカーをやる姿なんておかしくて見られたものじゃない。確かに、ホームランを打った時の気持ちはどんなものだろう、と思うだけでドキドキするのだが、一生体験できないことは多い。

 

 学校では音楽の授業だけ別の女性の先生が担当して、いわゆる昔で云う「唱歌」の時間であったが、ある日、「3種類の和音を弾くので、聴き取ってノートに書きなさい」と突然言って、簡単な聴音の試験のようなものがあった。試奏が少しあってのち、いろいろ順番を変えて弾き、聴き取る、いわゆる聴音だ。三和音のもちろん簡単なもの。でも、適当に並べている者もかなりいたりする。書き取ったのを見て回って「野田君、全部出来てる」とほめてもらったが、でも何故やるのかは全然分からなかった。何で急にこのようなことをする気になったのだろう?

 覚えているのは音楽室の右側に座っていて、窓からさわやかな光が揺れながら降り注いでいた懐かしい思いのみ。先生の名も思い出せない。

 大学卒業後間もない新任の先生の気負いがあったのかもしれない。その後は1度もなく、1年の終わりとともに、先生ともお別れになってしまった。

 

 1年生で、何より嬉しく思い出に残っているのは、父に「少年王者第一集」を買ってもらったことだ。山川惣治作・画のこの物語は、その後中学生になるまで続き、私、いや子供達を夢中にさせた。闊達で見事な描写の絵と簡潔な文章。展開の巧みさは魅惑的で、しばしば私達はその先の謎解きを語り合ったりしたものだった。今風に言えば、劇画と言ったところだろうか。

 

 少し後のことだが、筋向かいのやや奥まったところに住んでいるお兄さんが、毎朝私を迎えに来てくれるようになり、楽しい通学が始まった。仲良しの彼と、道すがら少年王者について語り合うのはかけがえのない時間だった。

 

 関係のない余談になるが、思い出すのは彼の家の隣、更に奥まった所に一軒の家があり、いつも不思議な佇まいをたたえていたことだ。夢のように蘇る。少し壊れかけた門の向こうに洋風めいた瀟洒な家があり、そこに至る道の庭には、いつも花が咲き乱れていた。溢れる花はあまり手入れはされておらず自然のまま放置されているようで、私にますます謎めいた感じを与えた。美しくほのかで、春などは日差しとのブレンドが香るようで、そのイメージが今も立ちのぼる。

 そこに芥子の花が咲いていたのである。柔らかく優しく決して強さを感じさせないこの花を、それ以来見たことがない。その頃は違法なものだとは誰も思わず、気にもしなかった。もちろんその住人もそうだろう。どのような人だったか会った記憶が無く、不思議さが残るのみである。母に聞くのも忘れてしまい、もう何も手がかりはない。

 

 戦後すぐの、薄暗い電灯の本屋に連れて行ってもらい、父が選んでくれた「少年王者」を手にした瞬間が忘れられない。1年生には若干難しい漢字があり、最初は父が語り聞かせてくれたが、何度も読み返したものだった。

 第一集から第四集は集英社から定期的に単行本として出され、その後、同社の新しい子供向け雑誌「おもしろブック」の連載となり、何年か掛けて第一話が終了した。

 ある事件から、ジャングルでゴリラに育てられた日本少年、真吾が、動物たちと共にいろいろな敵や悪と戦い成長し、すべての謎が解けて、素晴らしい大人として日本に帰国する物語である。ジャングルブックやターザンに恐竜や悪人達が絡む、秘境ものの集大成のような大作で、大団円を迎える。

 しばらくして、主人公が文明社会で再出発し、また秘境に戻る第二集が始まり、長い間連載された。育ての親の動物たちに再会し昔のような生活が始まるのだが、このあり得ないと思っていたことが、もう20年くらい前になるだろうか、実際に起ったのには驚いた。

 イギリス人夫妻がロンドンで育てたライオンを故郷のジャングルに帰し、後年、様子を見にその地を訪れた時のこと、そのライオンが新しい子供達を連れて草原の森から挨拶に現れ、夫妻に抱きついたのである。その映像を見た時、感動のあまり涙するのを押さえられなかった。現実に動物との交流は他にもいくつかあり、少年王者の世界は決してあり得ないことではなかったのである。

 

 主人公の「真吾」は、今でも何か心疼く存在だ。

 

 私は、それらをすべて、連載の切り取りも含めて今も保存しているが、ほんとうに残念なことに、第一集が、上京する前、気がついた時には消失していた。古紙回収に誰かが出してしまったらしい。今あるのは、後年、集英社の仕事をした折、復刻版をもらったものである。ただ、あの紙質のざらざらした、絵の色彩も紙になじまず質素な感じの原本は、何ともいえない雰囲気があり、忘れられない。

 芸大に勤めてからのこと、週刊文春の仕事をした折、「捜し物コーナー」のようなコラムがあり、そのことを載せてもらった。翌週、持っている人がいるという記事が出て、大急ぎでその方に電話したが、すでにマニアが持って行った後であった。残念!

 あの正真正銘、生まれたての「真吾少年」にもう一度会いたいなー・・・思いは募る。           

                                                                                                                                   (:復刻版表紙 / :原点版第三集表紙)