第2章

小学校の思い出 その3

野田暉行 

小学生になって、急に勉強に忙しい毎日となったが、それまで経験できなかったいろいろなことに触れる機会も多くなり、心豊かだった。

 復活した津の唐人祭り、映画、そして戦後の慰問に東京や大阪から来てくれる歌舞伎、多くの落語家、漫才等のバラエティ、NHKの公開録音、等々、その頃から数年、すべてを家族で見に行き堪能した。

 

 戦前から母は十五世・市村羽左衛門が大の贔屓だった。昭和18年撮影の「勧進帳」に富樫として出演している。六代目菊五郎、七代目幸四郎という最高度の名人達によるこの歴史的名舞台は、映画撮影され全曲残されている。

 テレビ時代になって一部分を見せてくれたが、全編は、フィルムの摩耗を恐れて歌舞伎役者でなくては見られず、時折、公開上映されるのみだった。その時にはもちろん何をおいても見に行ったが、作曲科の学生諸君を連れて大勢で歌舞伎座に出かけたこともある。今ではデジタルコピーが可能になり、ビデオが販売され、CSでも放送されている。何といういい時代であろうか。

 それにしてもあの戦時中に、このような名演が行われ、またそれを記録に残したとは!日本人は何と心豊かで余裕のある民族なのだろう。弁慶が素晴らしい延年の舞を舞い、最後に六方を踏んで入る瞬間は感動で息を呑むばかりである。いつも涙してしまう。

 子供には歌舞伎はまだ難しく、ほとんどわからなかったが、二代目猿之助(初代猿翁)の構成感のある演技には思わず見入った。

 落語は円歌、三木助、可楽、金馬等々、今は亡き名人達が次々に来てくれた。ただ、文楽と志生は来なかった。志生は箱根の向こう、すなわち私の居る側には別の人種が住んでいると言って、とうとう来なかったのである。

 漫才界では当時大御所となっていたミスワカナのほとんど最後の時、まだ駆け出しの頃の秋田AB助、みやこ蝶々等々、これも多士済々。ラジオで聞いていた芸人が目の前で演じる姿に、舞台が生きていることを知った。

 映画も次々に制作され、先般亡くなった大谷友右衛門(歌舞伎界に復帰した後は雀右衛門)主演の「佐々木小次郎」全3巻は、しばらく焼き付いて頭から離れなかった。私はすっかり彼に惚れてしまった。

 もう一つ「小判鮫」(多分、長谷川一夫主演)が、とても面白かった。確か前・後編があり、主題歌もずっと耳に残っている。

 思い出すのは、30年ほど前になろうか、何かで文化放送の電話インタビューがあり、最後に曲のリクエストをすることになっていて、それを掛けてもらったことである。懐かしく聞いた。

 これら映画の、続編の封切りは待ち遠しかった。

 何かの女王というタイトルだったと思うが、若き大女優、高峰美枝子の銀幕の姿にも、しばらくボーとなった。彼女の周りには、実際にオーラのようなものが輝いているのが見え、驚きだった。高峰秀子や原節子など素晴らしい女優達が、映画史に名を残した時代でもある。

 NHKの収録は、のど自慢やとんち教室など人気番組の全国行脚の一環だった。有名なとんち教室の青木アナウンサーを生で見て感激し、また録音はこうしてやっているのかと一部始終を観察できたのも嬉しかった。書けばきりがない、片田舎の出来事である。

 

 以上、少し先のことを纏めて書いてしまったが、1年生に戻ろう。

 アメリカのララ物資というのがあり、日本の子供のためにマッカーサー元帥が米国に要請して送ってくれた粉ミルクとトマトジュースが給食に出された。不味かったという感想をしばしば聞くが、私はそうとも思わなかったし、皆、喜んで飲んでいた。先生が事情を説明し、私は感謝の気持ちで率直に受け止めた。

 たしかに、まだ日本は栄養不足で、そういったものは大いに不足していた。たとえば、私がハムを始めて(生まれて!)食べたのはまだずっと後のことで、それも今のものとは似ても似つかぬものだったが美味しいと感じたのである。

姉とだんだん話が弾むようになった。新しく買った蓄音機でレコードを聴き、よく一緒に歌った。アコーディオンも活躍した。アコーディオンは学校でも少しずつ皆の認知を得て、学芸会、その他の催しにも出るようになった。

 学校では何を弾いたか覚えていない。合奏の一員として加わっていたが、家では、もっぱら童謡や流行歌などだった。タンゴのラ・クンパルシータなども弾いた。まだ名曲に触れる機会はなかった。

 

 少し離れたところの肉屋の小父さんさんが、よく店に来ていて、それを耳にし。ぜひ家に来て弾いてくれと言われたことがある。実は彼の息子とは幼稚園で一緒だったが、よく乱暴され、母の指令で、帰り道に待ち伏せしてやっつけたことがある。その一撃ですっかり大人しくなってしまったのだが、小父さんも見るからに怖い人で、その人からのリクエストをもらってしまったのである。全く乗り気しなかったが、母に言われて出かけることにした。家に入った途端、奥さんが「またこんな者連れてきて」と奧で呟いているのが聞こえる。でも小父さんは次々歌を注文して、一緒に口ずさんだりし、いたってご機嫌だった。いつもと様子が違う。意外や意外。ひとしきり弾いた後、すき焼きをご馳走してくれて、家まで送ってきてくれた。

 

 アコーディオンの方は、1、2度聞けばすぐに弾くことが出来る習性が進化しつつあった。その頃は何も考えず、もちろん方法も自覚など全くなかったが、今考えると、音程とリズムを瞬間に捉え記憶していたようだ。楽譜はまだ身近なものではなく、あるのは音のみだった。

  今になって、その後の成長変化を鑑みると、だんだんと音そのもののみならず情報を聞くようになっていったような気がする。そして、聞く曲の変化と共にそれは急激に変化し、ある頃から音楽そのものを聴くようになった。

 管弦楽曲などを何とかアコーディオンで再現できないかとしばしば試み、無謀にも高校時代には「1812年序曲」等に挑戦したものだった。それが、この簡素な楽器で部分的には実現できるのである。テレビのタイトル音楽などは殆どそっくりに再現できて、弟が感心したこともあった。

 

 ここには一つの発見がある。音楽の構成要素は、大管弦楽であれ、真髄を捉えれば同様の感動を与えうるということである。それは必要以上に複雑な形はしていない。

 ピアノがシンセサイザー的に機能し、ある時代から家庭内の再現装置になり、誰もが夢中になってしまったことはよく理解できる。ただ、現在重要だと思うのは、その逆はあり得ないということである。すなわち、ピアノを弾くことで作品が誕生するわけではない。その別れ目は難しい。

 作曲は何の手も経ることなく、聞こえてくるものを、必要あらば書き留めるという事に過ぎない。それは私の得たモットーだった。耳の不自由だったベートーベンはそれを実践して見せた。でも、それを標榜しとんでもない食わせ物が出てきたりもする。本人の心に懸かったものでもある。「作曲」という言葉は、その狭間の中で揺れて行われることの総称である。

  

 そして、世界のすべては、揺れ動きつつ、逃れられぬエントロピーの運命のもと、減衰へと不可逆の道を辿る。それは、宇宙も作曲も同じだ。宇宙が後退し、いずれ天上に星を仰ぐことは出来なくなるだろうと予想する学者もいる。その理論には少し矛盾を感じるのだが確かめようもない。

 

 ところで、当時の歌謡曲は、作曲家達がかなり力を入れてグレードを上げつつある時期で、程なくしてそれはピークを迎えるのだが、年々、人々の心を捉える旋律が生まれていた。戦後すぐに、疲弊していた人々の気持ちを癒したのは古関裕而氏の「リンゴの歌」であったが、私が「ホワイトローズ楽団」で歌ったのも、氏の「夢淡き東京」だった。それともう一曲、童謡の「月の砂漠」を歌った。

 服部良一氏の曲も広範囲に知られていた。高峰美枝子氏の歌による「湖畔の宿」は姉が好きで、よく歌っていた。氏の「蘇州夜曲」原曲は、情感あるクロマティックな和声付けと彼自身の器楽編曲によって、歌謡曲としては異例のものである。

 どのジャンルも、半世紀以上も前と現在とでは、天と地ほどの差があり、様相は全く異なる。すべての物事がエントロピーを伴って変化していく。

 

 いろいろと手探りのような1年生時代であったが、学校自体がそうであったのかもしれない。私はまだ周囲にすっかり馴染めたわけではなかったが、かけがえのない友達も何人かできた。

 戦前、家の東側にあった軍需工場跡には、戦後大病院が建ったが、その産婦人科部長の令息M君はいち早く意気投合した一人で、度々我が家で一緒に遊び、また。彼には病院に連れて行ってもらって、院長の永井先生のお宅にも伺うことになり。可愛がってもらった。自家用車で近郊までドライブに連れて行ってもらったして、初めての体験でもあり新鮮だった。先生にはその後たいへんお世話になることになるのだが、そこまでの道程(みちのり)はまだまだ長い。

 近鉄で大阪まで出かけたことがあった。初めての長旅と、長い青山トンネルには興味津々だったが、電車は混んでおり、どの人も貧しい身なりであり、急行ではあったが、速度は遅く、ひどく疲れた。大阪は何処も雑然として、戦争の後片付けはまだまだであった。誰かに会ったのだが、その記憶は不鮮明で、街の喧噪とごみごみした埃の感じしか残っていない。

 我が家の南の部屋からは、布引山脈の青山トンネルのあたりが見通せるくらい周りに遮るものがなかった。山が近く感じられたのだが、右方に少し見えている鈴鹿山脈の南端の向こうがどのようになっているのか、思い続けた。山の中腹からはこちらがどう見えるのか、海は見えるのか、等々、私には一つの神秘のよう感じられ、その後三重を出ることになるまで、その思いはついて回った。富士山も一度見てみたいと思い続けた。高い山への思いが尽きず、山の不思議な夢を何度も見る。それは今も続いている。