第2章 

小学校の思い出 その4

野田暉行

  2年生になり、新しく、とてもしっかりした優しい丸山宣子先生が担任となった。母性を感じる先生だった。それとは別に、算数を黒川隆雄先生が担当され、今思えば贅沢な教育体制だった。

 どの先生も若々しく、しかし経験豊かであり、生徒達に行き過ぎることのない十分な気配りをしつつ、自由な教育が行われた。戦後解放されて間もない頃の独特の高揚感を、今なお私は上手く語ることが出来ないが、思い出すと胸が痛くなるほど、暖かい感情が込み上げてくるのである。伊勢特有の人の接し方もあったかもしれない。私はいつも安心して先生の掌に抱かれていたように思う。あまりにも心に残ることが多いので少しずつ整理して進めて行こう。

 先ず思い出すのは先生方の黒板書がとても美しく、今思い出しても豊かな気持ちになることだ。返ってくる作文評等の走り書きも美しく心打たれた。学校の先生には板書が素晴らしい方がたくさんおられる。職業的練達の見事さ。そのことを体験した人は多いだろう。しかし、就中、丸山先生は特別だった。

  丸山先生、黒川先生、この二人の先生が私は大好きだった。そして先生もまた私を大好きになって、その気持ちは私の小学校時代の核のようになった。

(丸山先生からもらった写真と先生の裏書)

 学校には正真正銘の、生徒への思いが満ちており、教育運営上の問題など微塵も感じられなかった。そういう時代だったと総括していいものかどうか迷う。生徒達はのびのびとして畏縮している者などいない。小さな嫌がらせをする、いわゆるガキの類も少しいたが、一応選抜されて来た者であり、あるレベルにはあった。私も含めて、商人やサラリーマンの家庭が大半で、特にエリートはいなかった。

 思い出すと、私は大学に至るまでほんとうに数多くの素晴らしい先生と巡り会った。そういう運命なのだろうか。先生方から心底、親身の、単なる指導を遙かに超えたものを多くいただいた。

 ところで、この学校は教育学部の附属小学校であるため、教生制度というものがあり、年度はじめには大学から何名かの大学生が1年近い教習のためやってくる。いやこの時代はこちらが間借り身分であって大学の方にやってきていたわけだが・・とにかく、小学校の教室で授業をし、後ろで観察している担任の先生から指導を受けるのである。いわゆる教生先生。それは今と同じだが、附小(と略称で呼んでいた)では三重大学の教育学部のみを受け入れていた。 

 教生先生は、やって来ると、殆どの先生がどういうわけか先ず私に目を付ける。何か変わった子だと思うようで、やがて母が呼び出され、これまでの育ち方などを聞かれたりする。参観日でもないのに、突然母が学校に来ていて、振り向くと、授業中の後ろで、小声で話をしたりしていて驚かされる。少し恥ずかしい。このようなことが卒業まで度々あり、中には我が家まで訪ねて来るということも何度かあった。

 2年生の時派遣された藤田曉(さとる)先生は、その中でもほんとうに特別だった。私を自分の子のように可愛いがって、たくさんの思い出を与えてもらった。とても静かで優しい先生だった。

 亡くなられてもう20年以上になるだろうか。最後の数年を除いてずっと年賀状での交感が続いていた。

 丸山先生、黒川先生、藤田先生、この3人の先生が4年生頃までの私にとって、すべての中心だった。母はこの先生方と全く自然に、もちろん先生へのわきまえはきちんとけじめのついたものであり、決して軸はぶれず変わることはなかったが、しかし家族の一員であるかのように遇していくことになった。

どのようにそれが始まったのか私には全くわからない。気が付けばいつの間にか先生方が自分の家でもあるかのように頻繁に我が家に来られ、夏休みや正月にはかなり長く滞在された。戦後すぐ建てた質素で狭いわが家であったが、居心地がよかったのだろうか。父も母もそのようなことに特に気遣いはせず、先生もとても自然で屈託がなかった。私も全く普通のことなのだとしか思っていなかった。

 今ならすぐに問題になり贔屓だの何だのと責められることになるのが必定だが、当時は、父兄全員がこの現実を十分知っていたにも拘わらず、妬みも嫉みも皆無で陰口一つなく、PTAは実に和気藹々としていた。父も母もそのことに全く無頓着だった。

 後年、母はPTA学級委員長のようなことをやったのだが、卒業の日、父兄が異口同音に「このように楽しい父兄会はなかった」と言って、進学に伴う父兄会の解散を惜しんだのである。その光景を私もよく覚えている。同じような感想を高校卒業時にも聞いたことがある。

 黒川先生の授業はとても巧みで、生徒を惹きつけ退屈させることがなかった。お話を聞かせるのがとても上手で、特に「人魚とローソク」は皆を夢中にさせた。話してもらうのを全員期待して先生が来るのを待つのだった。現れると全員が「先生お話-!」と叫ぶ。「うんうん先ず勉強して、その後でね。」「必ずやって-」と言って授業は始まるのである。

 丸山先生はピアノが上手だった。戦争に負けず練習されたのであろう。今思い出すとその手は柔軟で、それは先生の奥行きを感じさせ、ピアノのみならず、全体の豊かさとなって私達を包み込んだ。とても優しく強く暖かい。先生の授業も、もちろん退屈などあり得ない。一方、黒川先生はヴァイオリンが巧みで、我が家ではアコーデオンでよく合奏したが、学校ではピアノの丸山先生が加わって三重奏となり楽しかった。その時はピアノで和音が補充され、とても豊かなものとなるのである。二重

の役割となるが、何しろボタンの数が限られており、カバーするために精一杯頑張らなくてはならない。特に、短調のコードボタンが付いていないので、単音ボタンを重ねて作るという苦心が必要である。それを連続させるのはなかなか難しい。                 

 

当時の軽い曲を弾くために作られた、しかも安い楽器だから短調のことなど考慮外なのだ。右手で補う以外、致し方ない。

 

 思い出すにつけ、私は素晴らしい先生とよい時代の中にいた。

 黒川先生には、私はもう先生を超えて甘えていた。

夏になると毎日のように顔を出され、しばしば何日も滞在されて家族全員と一緒に過ごした。時には、二人だけで食事をし、風呂に入り、海へ行って、一緒に寝るのだった。私はご機嫌だった。

 丸山先生は一度だけ泊まって行かれた。藤田先生も1回泊まられたのだったろうか。

 ただ、藤田先生の場合は、逆に宇治山田市のお宅に呼んでいただいたことの方が多かった。最初は、丸山、黒川両先生と一緒に伺ったが、1泊して、伊勢や志摩に連れて行ってもらった。立派な旧家で、間取りが分からず、ヒソヒソと考え合った。屋敷の中で迷う感じだった。映画を見せてもらい、たくさんご馳走が出て、ゲームをして、特別な時間を過ごしたが、立派なご両親も出てこられ、少し緊張もした。なんと

言うことか、二人の先生の招待に小学生の私が加わっていたのだった。

 その後も私一人で何度かよんでいただいた。写真館で記念撮影もした。

  藤田先生とは1年でお別れになってしまう。寂しかったが、その後、私のために童話を作って、優しい手紙と共に送って下さるようになった。続きが来るのが待ち遠しく、いつも先生のことを思った。

今もそれらは大切に保存されている。右肩上がりの変わった字で見事に統一された文面である。

 

  どの先生も怒った姿を見たことがない。ほんとうに静かで穏やかだった。黒川先生は運動も得意で闊達だが、そのエネルギーは怒りには決して向かわない。

 ただ丸山先生には例外的に一度、怒られたことがある、                             

ある日、放課後に友達と3人、教室でチャンバラごっこをし、大暴れをした。並べてある机など、もうどれも元の位置にはなく教室内はメチャクチャだ。傷つけたりは決してしないのだが、大声で走り回って心ゆくまで痛快に楽しんだのである。それが先生に見つかってしまった。ひどく叱られて2度としない約束をした。それはそれでさっぱり終り、翌日学校ではもう、もとの先生で、われわれも、もとの生徒だったが、保護者会の時、そのことを母に報告されてしまった。先生は淡々と事実を言っただけだったが、私は内緒にしていたので、今度は母から本気で叱られることになってしまった。

 母にはその頃もう一つ内緒にしていたことがある。

 我が家では、テストの結果について契約のようなものがあって、95点以上取れば10円を、90点以上は5円をもらえることになっていた。私は完璧にそれをクリアしていたのだが、ある日、国語の試験が返されて仰天した。87点だったのである。これは母が絶対怒る・・迷った揚げ句、帰り道、家の前まで来た時、破いて捨てることを決心し前のドブ川に捨ててしまった。

 しばらくして、またもや保護者会で成績報告があり母が知ることとなった。ただ今回は意外なオチが付いていた。難しい試験をしたので皆とても出来が悪かった。87点が最高点だったというのである。帰って来て母はその話をし、試験用紙をどうしたのか鋭く説明を求めたが、いつものような勢いはなかった。 10円はもちろん5円もお預けである。

学校に行くのが楽しく日々新たなことが起きた。汽車の絵は卒業し、風景などに興味が湧いた。

 2年生の写生大会では御山荘橋という車の走れない橋の真ん中に座り、海に向かって何気なく景色を描いた。津市が復興しかかっているのがよく見え、川面が影を映して淡い光が差し込んでいた。特に考えることもなくその場所を選んだ。あるのは質素な8色位のクレパスと、上質ではない画用紙のみ。あまり上手く表現できなかったような気がしていたが、校内展覧会に行くと特賞の金札が貼られていた。とても意外な感じがしたのを覚えている。

 つい先日、久し振りにその橋に行ってみた、今や車が行き交う立派な橋となり、降りたところにあった森とその中に建っていた時代的な御山荘は平地になってしまっているが、海を見た時の情感はこの絵のままに感じられた。何か変わらぬ真髄がこの景色にはある。

   写生の結果がきっかけだったのかどうか、しばらくして、以降中学時代まで毎週絵を習いに行くことになった。更に習字の教室にも通ったが、どちらもいささか億劫な感じだった。音楽の方には母はあまり積極的ではなく、それは我が家の実情に即したことではあったが、一度だけ、ヴァイオリンを小学校のもう一人の先生に習ったことがある。ヴァイオリンを得意とする先生が学校に二人もいたのだ。鈴木メソッドの2巻くらいまで行ったのだったか、曖昧なまま終わってしまった。相変わらず家にピアノがないことが音楽に身が入らない原因ではあったが、それよりも、大いに興味を惹くものが次々身近に現れて、心を奪われてしまったためでもある。