第2章

小学校の思い出 その6  

野田暉行

 

 三重県は大きく3つの地帯に分かれる。伊勢と伊賀と紀州であり、それぞれはかなり気候や気風や事情が異なっていて一括りには語れない。「伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ、尾張名古屋は城で持つ」といわれる津は伊勢藩の中心であるが、伊賀藩は山で隔てられており、行き交うには峠を越えなくてはならない。伊賀-伊勢は近鉄大阪線が通っているが、名古屋線とは線路の幅が違い、直通は出来ない。松阪に近い中川という駅で乗り換えが必要となる。この方式は、なんと、伊勢湾台風という巨大な嵐に見舞われて伊勢の近鉄がズタズタになり、大工事が行われた昭和34年、すなわち、私が東京に出ることになる年迄そのままであった。この年については、後にまた触れることになるので、ここではその歴史的事実のみに止めよう。

 一方、伊勢と紀州はもっと鉄道は不便だった。というか一部繋がっていなかった。伊勢の南には志摩があり、伊勢志摩と総称されるが、今でこそ、観光地として繁華な地帯となった志摩も、戦後かなり経つ迄、少し遠い存在の特殊な領域であった。その志摩を更に西南に下ればリアス式海岸の紀州が開ける。車で山を越えて遠くに海岸が見え始める時の感動は、まさに佐藤春夫の「紀の国の五月半ばは」を五感で感じる瞬間である。四半世紀ほど前頃になるか、新しいトンネルが通じて始めて味わった体験であるが、鉄道では、行ったことがなかった。志摩を通らず、参宮線を相可口(おうかぐち、現在 多気)という駅で乗り換え紀勢線で南下するのだが、この線は昔、三木里という所まで先ず開通し、その後、尾鷲、串本と徐々に延伸された。それほど高い山ではないのだが、海に近く切り立つ連山は路線敷設を妨げ、容易ではなかったようだ。三重県の最南端は熊野川が和歌山県とを隔てているが、その入り口、新宮に鉄道が繋がるのは戦後ずっと経ってのことである。

 それを隔てていたのは僅か800メートルくらいの矢ノ川(やのこ)峠であった。そこはバスで行くしかなく、それも実にスリリングなものであったらしい。急カーブを曲がり切れず、バスは崖の端に車体を乗り出して方向転換しなくてはならなかったと聞く。一歩間違えば崖下の残骸。そこを、なんと鉄道全線開通まで何十年も無事故で完遂したのである。

感慨をもって、開通のニュースを聞いたのを覚えている。

 このような訳で伊勢から出ることはほとんどなく、一番近い都会は名古屋であった。このことは伊勢人の気質に何か関係があるのかもしれない。街は穏やかで、何となく昔からの慣わしや地元独特の様々なことが、まだるっこい感じで、よく言えば穏やかに続く毎日であった。今となって振り返れば貴重な時間だったのかもしれない。

 麦畑には雲雀(ひばり)が何の警戒心もなく住んでいて時折天高く舞い上がり、雀たちは集団で飛び回り、燕は当たり前のように軒先にいて子育てに余念がなかった。百舌(もず)は初冬になると鳴き立てながら、すぐ前の電柱に枝を突き刺して生け贄の蓄積に励む(当時の電柱は木製だった)。生き物たちは皆そういった自由さで、それはおそらく、人がそれほどかまわず不必要な関わりを示さなかったからであろう。巷にも何だかのんびりした雰囲気が漂っており、皆穏やかだった。

 街には、まだ馬車や牛車がいて、色々な物売りが、思い出したように回って来たりした。今では考えられないことだ。豆腐屋はもちろん、魚屋、アイスキャンデー売り、焼芋、金魚売り、キセルを直すラオ屋、包丁の研ぎ屋、鍋直しの職人、紙芝居など、落語さながらの世界だった。上方落語では鍋直しはイカケ屋というが、その呼び名はなかった。

 色々な商人が思い出したようにやって来る。中でも独特だったのはマイロ屋である。

 どの物売りも音と共にやって来るのだが、かけ声、ラッパ、風鈴のようなもの等の中で、マイロ屋は際だって特徴的だった。爆発音をバックに笛のような音を長引かせながら、黒い引き車が近づいてくる。車には火の入った円筒とそれに繋がる注ぎ口があって、時々その円筒は爆発音を出して少し火を噴き赤く燃えているのである。それがやって来ると、たいていの家は米を半合程お椀に入れて駆け寄るのである。マイロ屋の小父さんは、米を注ぎ口から装置の中に入れる。火力が強くなってしばらくすると爆発音と共に米は破裂してこんがりとした臭いの柔らかい粒となる。ポップコーンの米バージョンである。そのアツアツを袋に入れてもらって帰る。とりわけ味の付いたものではないが、米のよい香りがする、もちろんポップコーンはまだない時代、誰が考え名付けたものか。他では余り聞いたことがないが、いささか懐かしい。

 しかしこういった物売りはほとんど23年で来なくなり、その後復活することはなかった。マイロ屋などは戦前にはなかったので、時代が作り時代と共に消え去ったのだろう。

 それらが消えるとのと時を同じくして、生き物たちも変化していった。何時の間にか雲雀や百舌などの鳥を見かけなくなり、私の住むあたりはさほどではなかったが、市中は整備されて、様子が変わっていった。

 時代とともに急速に変化して突き進む日本の姿の発端であった。その変化について語らない訳にはいかないが、それは後ほど纏めて語るとしよう。

 

 4年生になった。

 その前に思い出すことがある。3年の終り、学芸会でピアノの伴奏をしたことだ。

 記憶が少し曖昧なのだが、たしか、学年後半に女性の岡本先生が音楽専任として赴任された。私のアコーデオンを聞いて「アッ指使いが」と言われ、私はそのようなことを考えたこともなかったので少し驚いた。が、その後全く言われなかったので、私にとっての弾きやすさを認めて下さったのかもしれない。

 先生が突然「野田君、学芸会でピアノの伴奏して」と言われた時、何の抵抗もなく「はい」と言ってしまったのも今にして思えば不思議だ。それまでピアノに興味を感じたことはほとんどなく触れたこともなかった。たしか「まきばの朝」という歌だったと思うが、左手はアルベルティバス、右は旋律の簡単なものだった。先生からは「左手はこの形ね」といったような簡単な説明があって、練習は大学の講堂で3回くらい行なった。他の指摘や練習はほとんどなかった。もちろん家では練習できない。何の恐れもなく歌に合わせて簡単に弾いてしまった。ピアノへの共感は残らず、1回きりの出来事で終わった。

 そして新学年。

 この年、学校は大きく変わり、新しい専用校舎が建った。昨年来進められていた工事が完成し、大学での仮住まいが終わった。大好きなカラタチの垣根に沿って教室が建ち、教員室や音楽室、会議室、放送室等々が、コの字型に渡り廊下で繋がって配置されていた。講堂はなくそれは相変わらず大学が頼りだった。

 運動場も整備され、バックネットや鉄棒、竹登りなどが配置されて、ブランコや滑り台、シーソー、ジャングルジム、遊動円木、ぶら下がり回転遊具などの楽しいものもたくさんあった。竹登りと鉄棒はどうしても皆のように出来ず、駄目だったが。

 

 運動場は広く西の片隅にはまだ少し瓦礫の小山が残っていた。カラタチは各教室の南面になり、日当たりがよい。 

 

 

 その時私はまだ、黒川先生と別れの時が近づいているとは思ってもいなかった。

 1学期が終わる頃のことである。先生が数日我が家に滞在された。

 後の楽しい時間を考えながら一人勉強し、ハッと気付くと、先生が居ない。

 「先生は今日は帰らなくてはならないから、と言って帰られた。」と母は言う。「なんで教えてくれないの。」「引き留めると思うのでそっと帰ってもらった。今行かれたところ。」

 その言葉に私はワッと泣き出し、狂ったように家を飛び出し後を追いかけた。「黙って行くなんて」と何だか悔しく虚しく、駆け足で近くの駅まで追いかけたが間に合わず、会えなかった。         

 

 駅に行く道で号外が配られていた。たしか625日。何だか25という数字が頭に焼き付いていて、不思議だったが1950年すなわち、昭和25年だったのである。その日、朝鮮戦争が始まったのであった。号外をもらって帰る。寂しさと、訳は分からないが何かたいへんなことが起きたのだという感じが混交して、不思議な気分で家に帰った。 

  その後、もう先生が泊まられることはなかったと思う。

 2学期になって、突然担任の先生が代わった。丸山先生が転勤されたのだという。驚いたが、既にクラスのことをよく承知されている様子の女性の宮崎先生となり少し安心した。楽しかった黒川先生の算数も代わった。担任の宮崎先生は算数、理科が専門のようで、4年から理科が正規の授業科目になったことで変化が起きたのかもしれなかった。

 こういった色々な変化で、生徒の気持ちも一段成長したと言えようか。授業が大人っぽくなって、雰囲気が少しずつ変わって行った。私は、理科はもうほとんど予習済みで、極端に言うと、今の私の基本的知識はその頃仕込んだものだと言って過言ではない。

 当時よく本に載っていた鉱石ラジオに興味が湧いて、それ以降の私をラジオの組立てに熱中させる要因が芽生えた。庭に長いアンテナを張ってもらって、果たして入るかと思いきや、残念!全く何も聞こえない。何しろ鉱石にアンテナを付け増幅無しに検波だけして鳴らそうなんて無理な話だ。放送局のある都会にいなくては電波が微弱すぎる。という訳で、何とか自分が作ったもので放送を捉えてみたいという気持ちが更に募るのだった。

 当時ラジオはあまねく普及し、機器も進歩して、第1級必需電化製品であった。冷蔵家電などはまだなく、我が家では商売用に大きな氷冷蔵庫を置いていたが、結構邪魔なものだった。毎日、定刻に製氷会社が綺麗に切り取られた氷を配達してくれる。洗濯機が普及するのはまだまだ先のこと。食器洗いの洗剤もなく、油落としには、近くの山(戦争の時、逃げて歩いたあの半田の山)から採れる磨き砂を使っていた。

 ラジオはナショナル(今のパナソニック)などが 新型を出し始めており、昭和初期に父母が買ったラジオはもう時代物となりつつあった。この機器は、テレビアンという会社の製品だったがとても性能がよく、並4と呼ばれる、原理としては初期の素朴な構成のものながら、故障もせずよい音で十分な性能だった。もっとも民放がまだなく、NHKの第1と第2、進駐軍放送が入ればよいだけの時代ではあったが。

 このラジオで毎朝早く放送を聞く習慣がしばらく続いた。床の中で、語学放送やニュースを聞くのは楽しみだった。ある時英語の時間だったか、講師がフィンランディアの最後の歌の部分を英語で歌ったのがとても印象的だった。シベリウスの名も曲名も言わなかったので、もちろん全く知らない曲。言葉もわからないが、でもなんと心を打つ旋律と情感だろうか。私は即座にそれを記憶した。全曲に出会うのはまだ何年か先である。まさかシベリウスの管弦楽曲とは思わなかった。それに原曲には歌詞は付いていないのだ。その感動は想像も出来ないものだった。

  

 当時の通信簿(成績表)は評価が各科目について3項目ほど、それぞれ+2 +1 0 -1  -2 の5段階で評価される。0は普通で、プラスがいいのは見た通り。

 マイナスはもってのほかで、付いたことはなかったが、時々 +1が付くと母は気に入らない。学科は勉強して取り戻せるが、困ったのは体育である。前にも書いたように私は運動苦手人間。なかなか +2など取れるものではない。一度 -1が付いたことがあり、𠮟咤されて大いに頑張ったことがある。要は恥ずかしがらず積極的に行くことである。その結果、なんと+1は体育1個になりすべてのランクが左辺に揃った。母も喜んだが私も嬉しかった。ただそれは1回のみの奇跡だった。

 音楽はとりわけ一生懸命だったわけではない。今、コンクールの審査などに出かけ、子供達が素晴らしく弾くのを聞くと、その演奏に感心すると同時に、その家族環境を作られた努力、社会的状況に感慨を覚えないではおれない。

 その頃、地方の学校ではまだ合唱もままならない状況であった。学校では先生が努力して、先ず2部合唱の練習が行われたが、下声について行ける生徒がほとんどなく、先生が生徒を一人一人聞いてまわって、確かな子をピックアップしなければならなかったが、なんと2名しかいなかった。私はその一人だった。時代の格差に今や愕然とするばかりだ。そんな時を生きていたのだ。

 そのような音楽の授業に、音楽鑑賞が取り入れられるようになった。 

 その授業で私には忘れられないことが起きた。ファリャの「火祭りの踊り」を聞いたのだが、レコードは片面で約5分くらいだろうか。もちろん「火祭り」も面白く、知らないものだったが、気になるのは先生の机上に残っている何枚かのレコードだった。一体どのような曲が入っているのだろう。授業が終わって、私は先生に「さっきの曲の裏をかけて聞かせてもらえませんか」と聞いた。後片付けをしながら先生は掛けてくれた。その時私は、突然幻想を見たように思い、音そのものに心を奪われた。ラベルを見ると、それは「スペインの庭の夜」であった。その最後の部分、何枚かに分けられ、余った片面に「火祭り」を収録した全集の最後の1面だった。暗闇にきらめく光、漂う穏やかな空気。以来、その雰囲気とスペインの情感が私の中で固着し、特別のものとなった。

 その後何度も出会うことになる音楽というものの真の姿。その初めての出会いの瞬間だった。

 学校では色々な音楽教材を勧めており、興味の示すまま、私もシロホンやハーモニカ等々買ってもらって(買わされて)弾いてみた。どれもすぐに弾くことが出来た。器用なのかもしれない。でも家族は誰も何の興味も示さない。

 

 担任の宮崎先生はその学期のみで翌年はもうおられなかった。黒川先生はおられたが授業は担当されなかった。でも学校でよくお話をした。もう甘える時期ではなくなっていた。