第2章 

小学校の思い出 その7  

  野田暉行 

 

 5年生になった。思い出をたくさん残しつつ、これまでにない新しい世界が始まった。

街が次第に整備され戦後の雰囲気が薄れていくようであり、それに沿うように学校も新しい感じになった。校舎は心なしかリフレッシュされ、機能的にも整備されて正式の玄関ができた。これまでは大学の側からも自由に出入りできたのだが。

 運動場に瓦礫はなくなり回転ブランコやシーソー、遊動円木などの遊具が設置され、野球場も小さいながら出来、鉄棒、竹登りなど上級生用の体育用具も充実した。この二つは私はほとんど出来なかった。

 上級生は二階の教室の奥となって何だか新鮮だ。カラタチの木は少し目の下だ。

  そして 担任が男性の、竹森、平田両先生となった。私は竹森先生組である。

 二人の先生は元気いっぱい、体育が専門なのだった。さっぱりとした気性と話の早さは快感だった。音楽の先生は引き継ぎだったが、それ以外の授業は先生一人。どの科目もしっかりと、しかも少し大人の情感をたたえて、全員の心構えも少し変わった。

「現実」という言葉を初めて教えてもらった。生徒は、誰もがすぐこの二人の先生を好きになり、体操苦手であったはずの私が、まず、なんとその筆頭だった。先生の話は面白く痛快、笑いが絶えることがない。授業の中の話題も豊富で、世相、とりわけ反戦の話題からミステリー映画に至るまで尽きることがなかった。幼いながら感じたのは、戦後が始まってすぐの洗礼を受けた先生であったということだ。自由が謳歌していた。

 授業が始まってすぐの頃、「小さい時、ノミが太ももに突き刺さったことがあった」という話が強烈で、何かに付けそのことを思い出すが、授業はこうして始まった。

  体育の授業は、もちろんこれ迄より一段と熱心になったが、まず集中したのはサッカーだった。まだほとんど知られていなかったこの球技を、皆、あっという間に理解し夢中になり、やがて対戦が出来るようになった。

  私がこの球技を好きになったのには、少し訳がある。実は、私はひとり革靴を履いて通学していたのだが、その靴で蹴る力が、ズック靴より強いことが認められて、ホワードに選ばれたのである。先ず仲間として認められ、尊重されたことが嬉しかった。しかも大役である。画期的なことであった。私は大いに走りまくり、ゴールを決めた時の皆の喜びを堪能した。

  全体がまとまり始めた頃、附属小学校チームとして、対外試合をすることになり、竹森先生の故郷である伊賀上野に遠征して2試合ほど戦った。流石に相手チームはわれわれより経験がありまとまっていた。よく頑張ったが勝つことは出来ず大敗だった。少し寂しい秋の日を感じながら帰って来た。

  やがて、サッカー主体の体育授業はだんだん遠のき。私の出番は全くなくなった。

 音楽が私を何となく支配しつつあるようだったが、特別何をするでもなく、主体はやはり学科だった。家の誰もそのようなことに関心はなく、ただのアコーデオン好きでしかなく、勉強一辺倒だった。

 音楽教育はかなり変化しつつあった。合唱クラブなども出来て、音楽室から「月が昇ったまん丸と」(ずっと後年に分かったが、中田喜直さん作曲の合唱コンクール課題曲)などが聞こえてきたりしていたが、参加することは思いつかなかった。それに女声2部合唱で歌っていたようだ。

 音楽の授業では名曲の鑑賞がしばしば行われた。生徒の人気の曲はムソルグスキーの「蚤の歌」だった。リクエストが出るようになったくらいだ。私も数々の作品に興味を持つようになり、ラジオの、後に堀内敬三氏が担当された名音楽番組「音楽の泉」等を聴くようになった。6年生になった頃だ。

 折しも教生に来ていた先生が映画カーネギーホールについて熱心に私に教えてくれたことがあり、ぜひ見てみたいと思ったが、地方の上映はもう終わっており叶わなかった。30年位も経ってからようやく放送で見て、思いを果たすことが出来た。彼はストコフスキーについて夢中になって実に熱心に語り。何とか私にそのカリスマ性を伝えたいと思っているようだった。ストコフスキーのことはもう知っていたが、多分、本から知識を得ていたのだと思う。家にはそのようなレコード等は全くなく、あこがれのみが存在した。

 先生は白髪の素晴らしい指揮姿を身をもって表現するのだった。

 

 ストコフスキーは、ラフマニノフの「パガニーニ変奏曲」を作者と初演指揮したり、当時の難曲ストラビンスキーの「兵士の物語」を指揮するなど数々の功績を残しているが、そういった活動と共にステージに色々なアイデアを加えて、コンサートに新しい伝統を持ち込んだ人でもある。

 例えばステージのみを明るくし客席を暗くする演奏会スタイルは彼の発案だ。一時、指揮者のみにライトを当てる、果てはその手のみを照らす等ということも試行したようだ。

指揮棒を使わない指揮も彼のアイデアだ。そして新しいメディアに大いに興味を示し、「オーケストラの少女」、ディズニーと組んでの「ファンタジア」など名作を残した。「カーネギーホール」ではチャイコフスキーの交響曲第5番第4楽章を演奏している。この映画にはハイフェッツやワルターなども出ている。文字通りよき時代のメモリーである。

 思い出すのは「オーケストラの少女」について、我が師、池内先生の話。先生のパリ時代の友人にトロンボーン奏者がいて、彼はその映画に出たのだそうで、それをとても誇りにしていたとのこと。映画の時代性と共に面白い話である。

 

 もう一人の教生先生には、授業中に思いがけないことが起きた。

 社会の授業だったか。スムーズに進んでいた時である。海の話が出てきた、と、突然、様子がおかしくなり、目が遠くを見つめたようになり、そのまま崩れるように教壇上に倒倒れてしまったのである。後ろで聞いていた竹森先生がゆっくり立ち上がり教壇に向かう。やがてすぐに正気に返ったようだったが、気絶してしまったのである。

 後で聞くと、何日か前、友人と二人、ボートで河口から海に出たところ、転覆し、友人が溺死してしまったとのことであった。優しい先生だった。

 

 私も、プランクトンを採集したいと思い、義兄に頼んでそのルートを連れて行ってもらったことだがある。丁度この頃だ。この河口はボートレース等が行われ、狭くはないが侮れないものを持っている。夜は暗い灯台が照らすのみだ。深夜に行ってライトで海を照らし採集するのだが、灯台を離れると海は真の暗闇となる。薄気味悪い感じだ。河口は離岸流が強く油断ならない。他の河口で大勢の中学生が亡くなるという事故も起きていた。義兄は水泳堪能、ボートもプロ級で安心だが、あまりもう一度行きたいとは思わない。きっと教生先生はボートを持っていかれたのだろう。私は自分のことを思い出してふとそう思った。

 

 伊勢は海とは切っても切れない関係だが、竹森、平田先生の思い出として、まず海の林間学校を語らずにはおれない。2クラスの全員と希望者の父兄と共に伊勢志摩の無人島に出かけるのである。

 現在は観光施設もある離島であるが、当時は住んでいる人はなく、放置された校舎があり。諸設備も使える状態だった。伊勢志摩には多くの小島があるが、その中では最大の島であり伊勢湾の入り口

で外洋に接している。

 そこに一泊する夏の楽しみ。初めての計画で、その後も続いたかどうかは知らない。

 こういうことにはもちろん私の母も参加し、全員、賑々しく張り切って出かけた。鳥羽からは船で答志島まで渡る。大きめの漁船だっただろうか。その頃は、志摩は三木本真珠の筏が湾を埋め尽くしている他には殆ど何もなく、国鉄線は鳥羽が終点。近鉄は宇治山田迄でまだ延長されていなかった。今では志摩一帯は大がかりなリゾート地となっており、近鉄は英虞湾の賢島まで延伸されている。

 着いて一休みし、すぐに近くの砂浜へ海水浴に出かけた。水は澄み、心なしか全体に怜悧な感じがある。見渡せばかなりの岩場。津の浜辺とは違って。何か受け入れてくれないものを感じる。海に入って驚いた。2、3メートルも進むと海底がぐっと下がるのだ。しかも波は穏やかなものではない。抗しがたく海の力に持っていかれそうだ。私はびっくりしてすぐに浜に上がってしまった。泳ぎの得意な者も面食らっているようだ。先生も少し危険を感じたのか、長居をすることなく引き上げる。その後岩場で釣りなどをしている者もいたが、私は眺めるばかり。風は結構冷たかった。

  さて、午後遅めになって一大イベントが行われる。運動場に生徒父兄全員が集まり、周りを取り囲む中、先生登場。一同を笑わせたあと、何と鶏を衆目の中、手慣れた手付きで括り、夕食の材料とするのである。今なら大問題になるところだ。その頃はまったくそのような感覚はなく、全員手を叩いて喜んだ。何しろカシワご飯は当時何よりのご馳走だったのである。

 こうして夜は更け、われわれは室内でそれぞれに話したり騒いだり。ただ大騒ぎする者はいなかったが、先生と父兄は浜辺で酒を酌み交わしつつ楽しく歓談したとか。

 

 旅から帰って、先生は、夜、学校を暗室代わりにして、撮ってきた写真の現像、焼き付けをし、われわれにくれた。写真の制作はとても楽しい作業で、実は私も参加させてもらった。夜遅く学校に行くのも面白かったし、知らなかった現像焼き付け作業は大へん勉強になった。当時はカメラ屋にそれら素材一式を売っており、その後、私も使用して自身で楽しむようになったのである。

 

  附属小学校は、原則、附属中学への持ち上がりである。しかし、クラス分くらいの外部募集があり持ち上がるはずの何名かが落ちることがある。持ち上がりといえどもいやそのためにこそ、5年から6年にかけては授業が重要で、熱心で密度の濃いものとなった。母の激励もますますエスカレートし、通信簿を左に寄せる(最高点+2にする)ことへのこだわりは最高度だったが、体育以外は維持していた。このことはあとで少し意味を持つことになったが、それについては次の章で触れよう。

 

 6年生の大きな世界的出来事は、ヘルシンキでオリンピックが行われたことだ。戦時中にベルリンが先を越えて行っておりこれはその代償らしいが、そんな事情は知らなかった。

 「フジヤマの飛び魚」として世界に冠たる水泳の王者、古橋、橋爪は、もう世界選手権の時のような成績は上げられなかった。たちどころに欧米が研究したのだ。日本人で最初の金メダルはレスリングの選手だった。当時の放送中継は今では想像できないもので、長波を使用していたため、周期的に音が聞こえなくなったりするうねりを伴っていた。今のクリアな音声、映像等予測も出来なかった。

 私が最も感動したのはファンファーレだった。音で構成されるテーマのリフレインはフィンランドの情感を瞬間に十分感じさせるもので、私はシベリウスの作曲かと思っていたが、どうもそうではないらしい。分からないままになっている。戦後の新しい明るさを世界に伝えたイベントの音楽しか覚えていないのは、私の癖である。

 

 映画もしばしばそうである。当時は学校が映画館を借り切って新作映画を鑑賞する機会が多かったが。色々な映画を見に行った。ディズニーなどはほとんどそうして見たのではなかっただろうか。

 ずっと後年に分かったのだが、「海底二万哩」という映画がディズニー制作だったとは知らなかった。というのは音楽のことだけが強く心に残っていて、肝心の筋書きなど何も残っていないからである。しかも、その音楽が実際見た映画とはひどく違うことが後に分かった。テーマは同じなのだが、まるで違う音楽。考えてみると映画を見ている時、どんどん自分でアレンジして、それを記憶してしまったらしい。深海の遠くからソプラノが情感深く近づいてくる(はずなのだが)映画はまったく違う。ドキュメンタリー映画だと思っていたのも間違いで、劇映画だった。

 見終わったあと、隣にいたO君が「野田君は音楽のことばかり言ってうるさかった」と迷惑そうだったのは、こういうことだったのか。                               

 音楽については時と種類を問わずいろいろなことがおきる。例えば、その後に見た「リチャードⅢ世」は優れた内容にも増して音楽が素晴らしかったが、見たあとに読んだ新聞の映画評が気に喰わなかった。まったく音楽に触れていないのだ。私は腹を立て、評論家の無知を嘆き、母達に文句を言って鬱憤を晴らした。この映画のことも、ずっと後にわかり、作曲者はウォルトンであった。

 

  小学校最後のイベントは修学旅行である。それに当たって、私はカメラを買ってもらった。まだ誰も持ってない頃、流石に最も親しい写真屋の友人は持っていたが、あとは先生のみで、嬉しかった。

 旅行は、京都大阪行きで、どうしてそんなに近いところへと思われるかもしれないが、当時津から京都へ行くことがあまりなかった。津と京都は交通の便が悪く意外に行きにくいところだったのだ。私はもちろん初めてだった。

 京都駅に着いて先ず行ったのは三十三関堂。その多数の仏達。圧倒された。各名所を巡ったが、どういうわけかこの三十三関堂のほの暗い中に浮かび上がる仏像が頭を離れない。

 もう一つ強く心に残ったのは大阪電気科学館だった。全国で唯一のプラネタリウムが大阪にあったのだ。ホール中央に備え付けられた、まさにメカニズムの権化のような金属の機械は、見るだけでドキドキさせる。確か「白鳥」の音楽で始まったと思う。現在のみならず、あらゆる時のあらゆる空をたちどころに再現する機械に、尊敬の念を覚え、私の天文好きの情感が震えた。

 色々な行事が印象深く過ぎていった。

 

 いよいよ小学校の終わり、家では卒業式で読む答辞の練習が、父母の指導の下毎日念入りに行われた。前年も、送辞の練習で同じようなことをやっていた。挨拶文は巻き物に父が毛筆でしたためた。このような習慣、現在もあるのだろうか。気が入らず何だか鬱陶しかった。一つでも間違えると大変なので一生懸命やった。

 

 学校は、竹森先生の最後の授業となっていた。それは歴史の長時にわたる俯瞰から、前史を経て仏教伝来に至る大きな授業だった。実に印象的で、一瞬の間断もなく淀みなく進み、全員がその話に魅せられていた。強く心に訴える気持ちで終わったあと、先生は言った。

「歴史の勉強は多分中学に行くとつまらなくなるだろう。でも勉強しなくてはいけない。」

 確かにその通りだった。小学校の時の溢れる感慨は戻ることがなかった。 

 卒業式を迎えた。入学式の時と同じ大学講堂。ここは何も変わっていない。答辞も無事終えて、すべては思い出の中に閉じこめられた。

 終了後、父兄達は実に和気藹々として歓談し合っていた。このような楽しいPTAはなかったというのが    

全員の言葉で、母は満足そうであった。日ざしは燦々として、私は一瞬。戦時中を思い出した。

  ずっとあとで竹森先生に会った時。

自分の人生であの時のみが教育だった、他にはない、という言葉を聞いた。

 

  

B組6年生になった頃 

休憩時間の教室に平田先生に呼ばれて撮影。

戻ったらもう授業は始まっていて、

竹森地先生は少し文句を言った。