思い出の中に




第1章 

戦争の記憶 その1

野田暉行

 

 私は1940年(昭和15年)6月15日に生まれた。

 

 世の中はすでに戦時下にあった。満州事変に端を発した日本と中国の関係は日中戦争となり、それは徐々に諸国を巻き込みつつ、翌1941年12月には遂に日米は開戦し第二次世界大戦へと突入した。もちろんそのような事情は知らなかったが、私は子供ながら戦争の雰囲気、世間の特殊な状況を感じており、その感情は今も胸に熱く回帰してくるのである。

 

 その情感を言葉で言い表すのは難しい。大人達が現実として持たざるを得なかった危機感や緊張感、不安感等々とは違った、夢幻的なものが加味されたものと言えばよいだろうか。もう現代では感じることのできない情感である。ある瞬間の切り取られた感情、さまざまな状況が、子供ではあったが生々しく焼き付けられて今もそのまま残っているのである。

 

 先日インターネットで日本各地の空爆による被害を詳細に調べた記録データを発見した。私は三重県津市に住んでいたが、私の記憶している時期とデータ表がほぼ一致しているのに驚いた。それはもうほとんど終戦に近い時だったのだが、まずはそこに至るまでの経過を少しずつ、個人的思い出と共に書き進めていこう。

 

 私の最も鮮烈な最初の記憶は、満1歳になる3ヶ月程前のことのようだ。

 

これは、大きくなって母から聞いた年代によってわかったことである。それ以前にもいろいろと感情の記憶があるのだが、もやもやとして断片的であり特定できない。

 

 私の家はごく普通の酒屋であった。現在はもう撤廃されたが、当時は国の免許が必要な商売であり、決められた地区に一軒配置されるという仕組みのもと役所の管轄下にあった。塩も又許可制であり販売は統制されていたが、今では考えられない昔の商売である。暮らしは豊かではなかったがさほど貧乏でもなかった。各店は屋号で呼ばれ街の一つの目安のようなものになっていた。我が家は「泉屋」であった。

 

 私の上には姉と兄が居る。ただ、兄は私が生まれる2年前に4歳で亡くなっており、私が事実上の長男である。生まれた時、予定月で難産でなかったにもかかわらず、私はかなり大きかったらしい。それに色が黒かったのだそうである。母は一目見るなり「こんな子いらんわ」と言ったようだ。

 

 それには理由がある。死んだ兄がほんとうに色白で、短い生涯であったが忘れることの出来ない特殊な子供だったからである。いろいろな伝説が残っている。頭がよく、何事にも手間がかからず、人の言うことをしっかり聞き落ち着いて理解した、と母は言う。「異人さんの子」と呼ばれていたとか、デパートでは、たちどころに店員が駆け寄ってきて、あれこれ着せ替え人形のようにマネキンの服を着せては連れ回していたとか、逸話は枚挙に暇がない。

 

 その思いの中に私が期待を裏切って生まれたのだから、ショックはかなりのものだったに違いない。ただその後しばらくして私も劣らず色白になり、母の気持ちも和らいで「この子もまあまあええわ」と言うようにはなったようだ。

戦争の記憶 その1 野田暉行 Teruyuki Noda Memory of War
©野田暉行 (5か月)

私は生まれた途端、産湯のたらいを蹴って頭をぶつけてしまったのだそうで、それはもちろん記憶外であるが(トルストイはお腹の中の記憶もあったと言う)、現代と違ってお産は産婆さんが家に来て行われるのが通常だったから、アクシデントに、産婆さんは驚いたことであろう。13日目 に笑い始め、喋り出したのも早かった。今もそうだが実によく笑う子だった。家にあった童謡のレコードに合わせて歌い出したのも早く、祖母(母の母)が「おお、ころばせよう(いい調子で上手に)歌うわ」と感心した。そのことは少し覚えている。写真を見ると納得するが、あだ名は「大関」。授乳する時間がいつもと違うと怒る子だった。

戦争の記憶 その1-2 野田暉行 Teruyuki Noda Memory of War
©野田暉行 父 1937年 33歳

  少し脇道に逸れるが、兄についてもう少し書いておこう。

 

兄は特に弱い子供ではなかったが、神は長い生命を与えなかった。原因不明の病が次第に進行していった。父が日中戦争に招集されて別れ別れになった後それは始まり、兄は父のことばかり心配するようになった。そしてついに「お父ちゃん、お父ちゃん」と呼び続け、軍歌を次々に歌い続けて死んでいったのだという。死の直前の2枚の写真が残されているが、ピントが合わず口は半開きである。写真を撮ってくれた隣家のおじさんの話では、身体が揺れ続けていてどうしても撮れなかったのだそうだ。

 

 息を引き取ったその時、中国満州ではたいへんなことが起きていた。何人かの友人と火薬庫の番をしていた父は突如銃撃にあい、火薬庫が爆発したのである。

 

友人は死亡。でも不思議なことに父は怪我一つなく助かった。後の照合で、息を引き取った時刻がその時刻と一致することが判明した。「あの子が身代わりになったのだ」と父母は深い悲しみに沈んだ。

 

 母は、呼吸が止まる数時間前に、魂が肉体から離れるのがわかったと語っていた。そして思いもかけないことが起きた。父の不在中、幼い子の面倒を母の実家でみてもらっていたのだが、そこは何軒かが長屋になっている旧家で、各戸の裏庭は繋がっており、それぞれ見渡すことが出来るようになっていた。おばあさんの家の裏庭には大きな金柑の木がある。それは今もある。

 

 夏の宵、近隣の人達が縁側で夕涼みをしていた時のことだった。

その木の根元から暗闇に突如「ボッ」という大きな音を立てて一抱えの火鉢程もある真っ赤な火柱が立ち上(のぼ)ったのである。恐ろしさに人々はすぐに雨戸を閉めて閉じこもった。翌日、母は何人もの人からその話を聞いた。

 

 人の死に際して燐が燃え火の玉が走るということは例がある。多くの人が証言するこの話も事実なのであろう。

 

 父は一度帰国し、亡き息子の位牌と対面した後、再度招集の残りの期間を務めるため満州に戻った。まだ軍隊の統制が取れていた時代に職責が果たせたのは、我が家にとって幸せだった。その後の戦争が如何に無惨で過酷な運命を市井の人々に強いて命を奪ったか、その慟哭の思いは語り尽くせるものではない。もちろんまだ勝ち戦の時代だったとはいえ、戦場では命を賭して戦っている人がおり、多くの戦死者も出た。父はあまり語りたがらず、一つ二つの無難なエピソードしか聞かせてくれなかった。

 

 夜間に川の水で飯盒(はんごう)炊飯をした時のこと、翌朝、川をみたら赤銅色の泥沼で驚いたということ。乗っていた馬が撃たれ落馬して伍長に報告に行った時「馬でよかったですわ」と言ったら「馬の方が大事だ!」と怒鳴られたということ等々。その折の落馬は父が終生抱えることになる足の不自由の原因となった。赤紙(召集令状)はその後もう来なかった。

 

 私が生まれた時も父は不在だった。母はその間一人で商売をやり、よく頑張っていた。本を読むのが好きで、灯火管制下、黒いカーテンを張り巡らしては内緒で本を読んでいたそうだ。私は寝ていて記憶にない。ある日ついに見張りに見つかり1週間の罰則を科せられたらしい。夜回りと、どぶ掃除だったとか。でもそのようなことにめげるたちではなかった。めげていられる時代でもなかった。

 

  その日は曇って薄日の差す柔らかい感じだった。当時の家は店から真っ直ぐ台所の土間に通じるたたきの通路があったのだが、私はその通路に面した奥の部屋に一人いた。穏やかで部屋も通路もほんのりと空気が漂うような心地よい感じがしていた。その感覚が今も蘇る。そこに突然誰かが入ってきた。まるで何も気にしない感じで真っ直ぐにやってきたのである。そして私を抱き上げた。「お父ちゃん。お帰り。」と小さな声で私は言った、「おお!」と父は予期せぬことに驚き、喜んで抱きしめ頬ずりした。髭の感じが残る。私は何となく気恥ずかしい感じでどうしていいかわからず、じっとしていた。生まれてはじめて見る父であったが、すぐにわかった。その時が来たらそうして迎えるよう母から言われていたのに違いない。私は「今だ!」と思い、恥ずかしいけどお利口にそれを実行しようとした。その記憶が今もなんとなく後ろめたい感じで心の奥にある。やがて母が帰って来て、そのいきさつを知り、私は大いに褒められて、再び恥ずかしいような居心地が悪いような感じになったのだった。



第1章 

戦争の記憶 その2

野田暉行

 

   父母と姉、私の家族4人が久し振りに揃い(本来は5人のはずだった)、一家は落ち着いた生活となった。が世の中は落ち着くどころではなかった。戦争の影はひたひたと国民を覆い尽くそうとしていた。子供はそのことを知る由もない。それでも8歳上の姉は国民学校初等科に通い始め、学校の変化を感じていたようだ。

 

 私は、昼間一人部屋にいて、忙しく働く父母をみて、絵を描き、切り紙をする毎日だった。もちろん小学校の勉強も教えられ、いつの間にか学力も身についた。そういった年月が3年近く続いただろうか。太平洋戦争に突入した時、私にはその大事をまったく知らされなかった。ただ周囲が日々何かざわめいており、堅い雰囲気になっていくのを感じないではおれなかった。

 

 多分2歳から3歳になる頃だと思うが、私を負ぶって母が店をやっていた時のこと。醤油樽の大きいのが積まれていた風景を今も思い出すが、近くの部屋でラジオから音楽が流れていた。アナウンスがあって曲が代わり、その途端、私は曲に気持ちが悪くなって背中でいたたまれなくなった。トロンボーンの露骨なグリッサンドに身の置き所がなくなってしまったのである。ずっとずっと後年になって、その曲がわかった。「ガイーヌ」だった。これがはじめての音楽への強い反応だった。もちろん今はなんということのない曲で、高校時代にはよくピアノで弾いたりもしたのだが。日本はロシアとは友好関係にあり、敵性の曲ではないということから、初演直後の放送があったものと思われる。

 

 絵は、自分で言うのもおかしいが、今思い出すとかなりうまく描いていた。ザラザラの粗末な紙と、色も質も悪いクレヨンしかなかったが、それは私の宝だった。切り紙はもっと上手で、皆が感心した。鋏で色紙をあっという間に切って得意になって見せていた。毎日いくつも切って紙のない時代にもったいないことであったが、記念に1枚くらい取っておけばよかったものを、すべて紙屑になった。絵も切り紙も題材が次第に限られて行き、いつの間にかもっぱら汽車と電車になった。切り紙は、客車の窓を一つ一つ、一筆書きのようにくり抜いて、その技術はなかなかのものだった。

 

 同時に、汽車や電車を見るのが何よりも好きで、いつまでも飽かずに通り過ぎるのを待った。ご機嫌だった。家か100メートル程東に参宮線と近鉄が走っており、国民学校の運動場の向こうに踏切があった。今もしばしば夢に見る不思議な場所である。よく父にねだっては見に連れて行ってもらった。

 蒸気機関車の構造を詳しく絵にしようとしたが、いつの間にか必要最小限の書き込みと、それを最もよく見せると思えるバランスの構図が自然に定着した。

戦争の記憶 その2-1 野田暉行 Teruyuki Noda Memory of War
©Teruyuki Noda

電車の新しいメカニズムにも夢中になり、勝手なネーミングをして、一人喜びに浸っていた。パンタグラフは「マンゾク」、踏切は「ガンガンメ」といった調子で、ずっと後になって父が駅員に正式名を聞いてくれるまでそう信じて譲らなかった。

 

 外に出て遊ぶことはほとんどなく、時折お隣の男の子と何かをしたがそれが何だったか記憶にない。ただ家の中でじっとしていたわけではない。先ずは親愛なる玩具への尽きぬ興味。絵本。それらは大いに想像をかき立て物語を与えてくれた。父が持ち帰った傷病兵の病院の絵本は強烈で今も忘れない。

 

 1歳を越えて記念写真を撮りに姉と写真室へ行った時のこと、撮れるまで1時間以上かかったのだが、それは玩具に夢中になって動き回り。写真のことなど何も気にしていなかったせいである。ほんの一瞬カメラの方を向いた瞬間をカメラマンは捉えた。皆が困り果てていたという話を姉から聞いたが、その写真館に出かけたことは私自身もよく覚えている。

 家には兄が着ていた水兵服が残してあった。私はよくそれを着せられた。せめてもの兄の面影を偲ぼうとしたのだろうか。進軍ラッパをはじめとして、軍隊の様々な記念物がたくさん残されており、私はそれを大切にしていた。しかし、いつの間にかすっかり無くなってしまっ た。どうしたのだろう?

戦争の記憶 その2-2 野田暉行 Teruyuki Noda Memory of War
©Teruyuki Noda

3歳の秋頃だと思うが、母と、知り合いの神戸(かんべ)さん母子とで伊勢神宮へ行った。なんだか少し熱くて疲れ、早く帰りたいとそればかり思っていた。記念の写真もそのような顔つきだ。その頃伊勢市には市電が走っており、木造の停留所でそれを待つのだが、その時間も長く感じられた。神戸さんの坊や(といってもかなり年上)も考えは同じだった。何度も線路の方へ出てはまだ来ないかと見ている。やっと電車の姿が見え、彼は喜んで線路の方へ。その時私は「危ないよ」と彼に注意したのだった。これも何故か鮮明な記憶である。

 伊勢神宮は津からそう遠くはない。以後何度も出かけることになるのだが、私はだんだん変わりゆく佇まいに、残念な気持ちが先立ってしまい、今は3歳の時のような特別な感じにならない。伊勢湾台風で多くの巨木が倒れ、五十鈴川の様子ももう以前のようではないが、何より第一、人があふれ、あれほど日本を敵視した外人達が気軽に歩いているのを見ると不思議な感じがするばかりである。だから、この3歳の時の経験は誠に貴重なものであり、疲れたなどと思い出すべきではないのかもしれない。母も神戸さんも一家の安寧と戦争からの無事避難を心から祈ったに違いないからである。 

 周りにあるものすべてに抱く興味はますます高じ、ついにはいろいろと分解を始めるようになった。やはり3、4歳の時だったと思うが、ついに目覚まし時計をばらばらにしてしまった。絶対元に戻せると信じていたのだが、部品の数に勝てなかった。不思議なことに誰からも怒られずほっとしたが、もう使って役立つご時世ではないと皆が感じていたのだろう。後のことになるが中学時代、腕時計に挑戦した。やはり途中で手が追いつかなくなり、時計屋のお世話になった。ドライバー一つというのも無理な話だったが、未だに時計の構造には大きな壁がある。ハンドメイドの時計の魅力と価値はそれに尽きる。

 

  はっきりした日時の記憶はもちろんないのだが、昭和18年(1943年)これも3、4歳頃だったか、少し薄雲のある晴れた日。耳慣れぬかすかな飛行音が超高空から聞こえた。「あれ?」と言う父母の言葉に私も耳をそばだてた。重くうなるような不気味な持続音。父によれば新型爆撃機B29の初の津市上空の通過だった。この後攻撃の立役者のようになるB29。日本の零戦機とともに太平洋戦争の代名詞と言ってもよい攻撃機の登場である。

 

 プロペラ機としては異例の高度を飛んでおり、目で捉えることはなかなか難しく、幻のようにも感じられたが、音はしばらく尾を引いて続きやがて去った。偵察飛行だったに違いない。高射砲は決して届かない高さ。おそらく今後の攻撃のため街の資料写真を撮っていったのであろう。レーダーといい日本にはまだない技術だった。そのような詳しいことを一般人は知るよしもない。ただ、高射砲や機銃掃射などの戦争用語はもう私もわかるようになっていた。

 

 このきっかけがすべての始まりだった。やがて、中型、小型の各種爆撃機が低空を1機2機と飛ぶようになり、その数が次第に増して、飛来の回数も不定期に増大していったのである。そのような時まずB29のうなりが遠くから近づいてくるのが常だった。それは子供にも聞き分けられた。忘れられない前奏曲のようだ。

 

 戦争とは別の記憶だが、4歳の時から戦後にかけて、大きな地震が3回あった。実はその前にさらにもう1回起きていたらしいのだが、それは鳥取の方が震源地で津ではあまり感じられなかったので、私の記憶は3回である。近年の大震災に比べれば少し下のランクの地震だったとはいえこの地では100年に1回あるかないかの大地震であったことに間違いはない。子供にとって生まれて初めてのこの洗礼は驚きだった。最初の2回はほとんど立て続けに起きた。記録では約1ヶ月の間隔で起きたようだ。震源地がまったく別なので余震ではない。

 

 1回目の印象があまりにも強烈で、2回目はもう戦争の危機の方が身近になりつつあったこともあって、1回目程インパクトが残っていない。冬のさなか、1回目は午後に、2回目は真夜中にやってきた。

 

 その午後、私と母は2階に居て、丁度階段を降りるところだった。突然激しい揺れが突き上げてきて階段をやっとのことで降りた。父は外出中だったため、母が一人何とかしようとしたが、もう揺れで立っているのも精一杯で動けなかった。母はタンスの前に立って私を前にしっかり抱きしめ身体でタンスを押さえつけて守っていた。不思議に怖いという感じは私になかったが、店の商品が激しくズレ動いているのをじっと見ていた。醤油樽の栓が飛び、醤油が押しては寄せる波のようにこぼれ落ちた。店の棚に置いてあった青と白の陶器の平たい器の盆栽が、前へ前へと生き物のように動いてついには落ちて壊れてしまった。周りの様子は、すべてのものが踊るように上下して、同期しないフィルム映画の画像の如く二重映像になったような感じだった。揺れはかなり長く続いたように思う。幸い家は無事で、表に出ると近所の人が大勢集まって、口々に恐ろしさを語り合っていた。向かって右隣は豆腐屋だったが、家が一部崩れており、主のおばあさんが道路にへたり込んで拝んでいた。父が飛んで帰って無事を確かめ合い、ほっとしたが、姉は、多分勤労奉仕で出かけたのだと思うが、行っていた所の近くの女学校の2階が落ちたと報告していた。

 

 2回目についてはこれほどはっきりした記憶がない。とにかく真夜中にたたき起こされたのと、じっと布団の上で揺れが収まるのを待っていたのではなかっただろうか。家のきしむ感じとガラス戸の震える音、外の暗闇が恐ろしさとして残っている。

 

 いずれの地震も公的な情報は何も知らされず様子がまったくわからなかった。戦後何年も経って戦時下に東海地方で大地震があり死者もかなり出たこと、人心が乱れるのをおそれて報道は一切されなかったことを知った。

 

 世の中の状況はどんどん悪くなった。食糧難、町内会の戦時訓練や消火訓練、相次ぐ灯火管制、鳴り響く空襲警報。夜の空に交錯する探照灯の不気味さ。毎日がそのようなことで過ぎていく。でも、皆、誠実に義務に従っていて、私の記憶に残っているトラブルなどはない。甲高い警報サイレンの音は何とも不快な緊迫感を人々に与えた。鳴る度に身を潜めて、解除を待つのだが、最初は警報のみで何事も起きないことが続いた。このサイレン音は徐々に悪夢のように身に染みつきやがて慣れてしまったが、実はアレルギー症状のように潜在し、戦後も反射神経を逆撫でした。工場などで戦後しばらく続けられた休憩合図など、違和感に襲われ忌まわしい感じが即座に復帰するのであった。評判が悪く少しずつ廃止されたのだが、この頃またぞろ緊急避難警報など聞かされ始めたのは、「時代は繰り返す」の警告か。

 

 バレーズの作品「イオニザシオン」にサイレンが出てくるが、大学入学の年、実演を聞いて思ったのは、そのようなことをしないとインパクトが作り出せないのか、という虚しさだった。

 

 我が家ではかなり遅かったのだが、あちこちで防空壕作りが始まり、人はそこを安全と信じて逃げ込んだ。ほとんど爆撃から身を守ることは出来ないのだが、他に手段もない。サツマイモの粉を揚げた菓子風のものを防空壕で食べたのが懐かしい。何もない当時としては結構美味しかった。中には蔓まで食べたという人もいるが、私には思い出せない。今や有名になった「すいとん」は確かに定番メニューとして欠かせないものだった。

 

 津には軍需部品の下請け工場があった、都合の悪いことに私の家の東側、そう、先程書いた行きつけの踏切の向こうにかなり大きい工場があり密かに何かを作っているのを知っていた。筋向かいの少し離れた角にも得体の知れない小規模のものがあり、それらが狙われないはずがなかった。

 

 初期の頃は地上から対空砲火で応撃していたが、一度、打ち落とされた米小型戦闘機が煙を噴いて、家の少し前の低空を北西方向に落ちていくのを見た。赤い米兵の顔が小さなコックピットから一瞬見えて、ちらりとこちらを見遣ったような気がした。機はそう遠くない観音寺という所に不時着し、米兵は引きずり出されて打ち殺されたのではないかという噂だったが、真相は誰もわからなかった。このとんでもない出来事に誰もさほど驚かず、平然と見ていたのは、既に戦場の中に我々が取り込まれていたということだったのだろう。事情を知らない子供の目には何か楽しくさえもあったのである。

 

 戦闘機の旋回を度々目撃し、私にも機種が認識できるようになった。空襲警報の回数は増え、やがて夜にも襲いかかるように鳴り響いた。灯火管制下、防空壕を電灯で照らすわけにはいかず、我々は町内ごとにチームを組んで川の上流の暗い土手に避難しなくてはならなかった。全員連れだって出かけたが、楽しくもありなんとなくうんざりでもありだった。 私を乳母車に乗せ、一家で数キロの暗い道を、何度往復しただろうか。

 

 ただ、川の土手で、人々は意外にも明るく和気藹々と語り合い、真っ暗な街の方を見ながら、警報解除を待つのだった。さすがにその土手までは米機もやって来ず、皆安心していたということもあった。もう終戦の年になっていた。

 

 そういったある夜、夏で蒸し熱い空気だったが、そのせいばかりでなく、いつになく騒然とした雰囲気が漂って「今夜は何かあるな」という予感が皆に広がった。特に北の方向が何かしらざわめいて、遠くで砲火音が響いているようで落ち着かなかった。その時である。一瞬その方向に大きな火焔が無音の中扇形に炸裂し、かなりしばらくして重く遠い爆発音が押し寄せてきた。火焔はちょうど旭日旗の模様のような筋を描いて放射状に広がり、大仕掛けの花火のようでもあった。「日の出!」と誰かが叫んだ。「四日市がやられたな」と嘆息する人。ほとんどのものは「あー」という、声にならない驚きの叫びと共に押し黙った。火はとても近く見え、四日市だということが私には信じられなかった。

 記録によれば3月の東京大空襲以来、本格的な地方爆撃が開始されたようだ。1945年6月18日、私の5

歳の誕生日の3日後に、四日市市は5分で焼野原と化した。その瞬間を30キロほど南の津で私は見たのである。



第1章 

戦争の記憶 その3

 野田暉行

 

  事態はいよいよ切迫してきた。

 

 記録によると、四日市の壊滅的空爆以前に、既に津の周辺地区でも散発的な爆撃があったようだ。少し前に私が見た、急降下する米機はその一つかもしれなかった。時を措くことなく、それは津の市街地区にやって来るだろう、ということを皆が予測した。商売をしていたのでいろいろな人がやってきては、その聞き込んだ情報を話して行く。子供にもその内容はよくわかった。そして、誰もが「疎開」ということを言い始めた。私はその意味も知っていた。実感はなかったが、どこかへ逃げるのだという覚悟のようなものもあった。

 

 多くの人が、疎開先に持って行けないものを田舎の人々に預け家の整理をした。我が家も、タンスなどの家具や、嫁入り道具、少しばかり上等な母の着物などを農家に預かってもらい、急速に準備は進んだ。戦後、それらの多くは戻って来なかったが、それを責めたり追求する気力もなく、すべては泣き寝入りのようになって終わっていった。我が家は商売をしていたこともあってか、物々交換の形で少しは見返りがあったようではあるが。

 

 店の商品は当座の必需品以外ほとんど置き去りにされた。もう食料は完全配給制となり、皆、切符を持って決められた量を買うので、当然その量しか入荷しなかった。戦後もしばらくそれは続いた。各自、狭い自分の庭で野菜を作り自給自足しなくてはならなかった。

 

 私には、父母がラジオで情報を聞いていたという記憶がない。参謀本部の発表など無意味だと思っていたのかもしれない。店の客の方が確かなインフォメーションを教えてくれる。確かにその通りのことが起って行くのだった。人は利口だ。

 

   空襲警報が頻繁に発令され、一日に何度も鳴るようになってきた。

 

  攻撃といっても今のようにICBMがあるわけではないから、飛来の予測は南方洋上を監視すれば日本軍にも可能だったはずで、警報はかなり確度の高いものだったが、本土の何処に来るかは近づくまで確定できなかっただろう。警報の確度はその程度のものであったに違いない。来てしまえばお終いである。

 

 そのような状況であったにもかかわらず、何故かこの頃を思い出すと、暗くはあるが、ほの甘い夢のような感情が蘇る。3、4歳頃をこのような特殊な状況下で過ごしたことが、現実から自分の幻想の世界へと誘う役割を果たしたのかもしれない。一世代前の人達とは、年代差以上に異なる幼児体験をした短い期間であった。緊迫感の中に漂う礼節を守る人々の情、それを反映したかのような空気や空、言葉で表現出来ない情感が湧き上がる。

 

 この頃の夢を今もよく見る。どういう訳か必ず広い運動場か公園のような所の隅の方にいて、なぜか懐かしく周りを見渡している。空は淡い青と白い雲が不思議に混じり合って穏やかである。戦争の中にいるという緊張した感情が穏やかな周囲の状況と不思議に釣り合って、少し気怠い感じもしている。周りには誰も見あたらないが、遠くに人の気配がある。もうこの日は来ない、と遙かな時に胸が痛くなるような思いを馳せつつ目が覚めるのである。 

 

 今考えると不思議なのだが、昨今ドラマなどでよく見られるシーン、出陣壮行会というものを見たことがない。もう早い機会に大方の赤紙招集が終わっていたのだろうか。私の義兄は、特攻隊を志願していたと語っていた。おそらくこの頃のことだろう。終戦で出動することなく終った。

 

 空の状況は一変し、攻撃機が飛び交う日々が増えて行った。今や、しっかり認識できるB29の唸るような響きが近づくと、低空に敵機が現れ、どこかで攻撃が始まり、日本の小型機が応戦に飛んでいくという感じだった。米機にはB29の小型攻撃機もあったとのことだが、当時は詳しくわからなかった。

 

 短い期間ではあったが、津では、空襲警報のみで何事も起こらなかった。

 

 しかし、暖かくなり始める頃、状況は一変する。本番はすぐにやってきた。津市への局地的な攻撃が始まり、今日は阿漕(あこぎ)、明日は安東(あんとう)といった調子で、被害の報告がもたらされた。意外にも爆撃は郊外の方から徐々に市街地へと近づいてきたようだった。夜、避難をしているあたりも安全地帯とは言えなくなってきた。新しく焼夷弾というものが開発されたという話が伝わり、木造建築を焼き払う夜間攻撃が始まるということだった。軍需工場のみならず一般市民をも狙い、それは全国的に拡大して行くのだった。

 

 先にも書いたように、我が家の東、数百メートルには軍需工場があり、それが狙われることはもう必然だった。昼間の攻撃目標であった上、市街地への焼夷弾ということになれば、24時間休んでおれない。

 

 米軍は詳細に全国の軍需工場の場所を探知し尽くしたのだろう。それらを多彩な方法で次々に攻撃していくプランだった。日本の軍がどれくらいその科学力を知っていたのか?疑問である。聞く耳も持たなかったにちがいない。

 

 そして、その時は急速にやってきた。警戒網をかいくぐって。

 

 わが家の南には少し庭があって、当時のことだから遮るものなく東の空を見渡すことが出来た。その視界に、突然米軍機が現れたのである。けたたましく警報が鳴りわたる。防空壕に駆け寄る間もなく、東の空に飛行機が見え、思わず全員立ちすくんでそちらを眺めた。軍需工場より向こうの方であり、直ちにこちらに来る様子はない。その全体像がはっきりと見え、機影は遠く近く重なり合い、円を描いて空中戦を展開しようとしていた。初めて見る光景に、本で見た空中戦とはこういうものなのか、と私は見入った。日本の小型機が果敢に応戦しているようで、何度も旋回しつつ煙を吐いて視界から消えた。ほんの 1、2分程度のことだったと思う。どちらがやられているのかはわからなかったが戦いは続いているようだった。急いで防空壕に駆け込む。少し間があって何かが庭に降り注ぐ音がした。それが止んでしばらく、警報が解除され、外に出ると、庭にはおびただしい数の金属片が落ちていた。家を貫通するほどのものではなかったが、明らかに戦闘機のものであり、2~10センチ足らず、厚さは5ミリくらいの、一つとして同じ形のないものだった。どれも不規則に捻られたように曲がり、熱で焼かれたためか、丁度真鍮が七色に輝くような光を放っており美しく感じたが、縁はぎざぎざに尖って危ないものだった。熱いのですぐには触らないように注意された。他に厚いガラス片のようなものも落ちており、ほのかに化学的な気持ちのよい臭いがした。防弾ガラスの破片だったのだろうか。普通のガラスと違って縁は鋭く切り立っておらず、溶けた様子はなかった。戦後も瓦礫から時々見つかり、友達と面白がったものである。

 

 母が破片を拾っておくように言って、私は大喜びで拾い集めた。それも宝物のように大事にしていたのだが、思い出した時には無くしてしまっていた。津市爆撃記録によると、6月26日、軍需工場爆撃とある。その日だったのだろうか。工場はやられなかったが確かにその空中戦のあと火事があったと思う。記録を紐解くと、3月12日から爆撃は開始され、爆弾投下以外にも一般人への機銃掃射、近鉄伊勢線(戦後しばらくして廃線となった)への機銃掃射などが行われ、間をおいて7月まで8回に亘って続けられたという。当時は長く感じたが、僅か10日足らずのうちに様々なことが起きていたのだった。

 

 東京は3月のいわゆる大空襲以前からすでに度々空爆を受けていた。実は、津市も同時期に断続的な爆撃を受けていた いたのだ。父母がそのようなことをどこまで認識していたか確かめなかったが、国の情報は管理され、結果は正確には伝えられていなかったであろう。

 

 市街地が極めて危険な状況になって、何時私たちの一角に敵機が襲来してもおかしくない状況がひしひしと実感となって顕在化してきた。逃げる時が来た。父母共に出身は津市なので、遠くの田舎には身を寄せるところがない。とりあえず、亡き兄が最後の時を過ごした母の実家が最有力候補地となり、一家で移ることになった。そこがどれくらい安全か、もう以前ほどの保証はなかったが、運を天に任せるほかない。大急ぎで荷物の整理が始まった。

 

 その日は朝から近所中が慌ただしく、我が家も大急ぎでいろいろな準備をしているようだった。今日は空襲があるという確かな情報がもたらされたのであろう。午前10時頃だっただろうか。空襲警報。いつもと違う差し迫った感じだ。この日は全員即座に防空壕に入った。蒸し暑い。息を潜めて耳を澄ます。やがて激しい爆撃音が響き渡り、かなりの時間続いた。防空壕は安全だと皆思っていたが、考えてみれば、直撃を受ければひとたまりもない気休めであり、豪の中で亡くなった方も多くあったことを後に聞かされた。爆音は以前よりずっと近い距離で響きわたっている。真上ではないようだ・・・ドキドキしながら時を待つ。

 

 ようやく静かになり警報が解除になった。先ず父が、続いて全員が豪から飛び出して驚愕した!周囲に舞い上がるもうもうたる砂塵と無数に散らばる細かい残骸。周り一体の風景は一変し、あらゆる所に瓦等が粉々になって散らばり、家の中身が吹き飛んでいる。目の前の我が家は形こそ保ってはいるものの、ガラス戸や襖などはすべて外れ落ちて散らばり、海から来る東風が家を吹き抜けて、埃と砂混じりの煙のような塵がもうもうと家の中に舞い上がっていた。その流れがはっきりと見て取れる。ついに軍需工場が爆破された。東天に舞い上がる黒い煙とその中に見え隠れする火焔。その爆風の瞬間的な直撃はものすごいものだった。

 

 父は覚悟していたのだろうか。あまり大声は上げず、いくつかのものを拾い集めている。母も、取り乱すことなく、大急ぎで荷物をまとめているようだ。外から裏庭まで見通せる我が家を見て、私はさすがに動転し、一瞬、どうやって元に戻すのだろうと思ったりしたが、ただちに家を出ることが決定した。ついにその時が来たのだ。

 

 7月だった。真夏ではないが梅雨明け前の雲がまだ空に残る薄晴れの日であった。「これからお婆ちゃんの所に行く」という母の言葉を、私は一時的なものとして聞いていた。タンスから少し上等な洋服をいくつも取り出して母は幾重にも私に着せた。長袖の洋服に、ズボンを3枚も重ねて履き、身動き取れないほどの格好になり、水兵帽をかぶった。不思議に暑いと感じなかった。やはり差し迫ったことに緊張し、代謝の感覚が日常と違っていたのだと思う。心拍数が上がり息が詰まりそうになることがよくあるが、明らかにそうなっていたに違いない。

 

 閑話休題。突然、この稿を書いている1ヶ月ほど前の音楽会を思い出した。小泉和裕氏の悲愴交響曲を聴いたのである。彼の演奏はいつもそうだが、この日は、最初の音から最後まで心が一点に集中し、一瞬も身じろぎできないくらいの緊迫感に包まれた。最後の楽章で遂に私の心拍数は最高度に達し、息が出来ないほどとなって身体の震えが止まらなくなってしまった。私だけかと思って妻に聞いたところ全く同じだったという。音楽の真の力はものすごいものだ。

 

 家族全員、用意が調い、飛んだ戸を嵌め直して一応鍵を掛け、父はリヤーカーに多くの家財道具、味噌や食料などを積んで自転車で引き、姉を乗せて一足先に出かけた。後を追って母が私を連れて出るのだが、その時、隣の菓子屋のおじさんが出てきて別れを言い、私に、セロハンをガラス代わりに入れた眼鏡を作って掛けてくれた。何か嬉しく、そしてせつなかった。「てるゆきちゃん、元気でな」「Mさんもお元気で」と母が言って出発した。おじさんもすぐに実家に行くという。あたりにはもう人はいなかった。

 

 私の手には、橙色の布が張られた、厚紙制の小さ目の真四角な手提げ紙入れが、しっかりと握られている。切り紙用の色紙と鋏が入っているのだ。唯一の宝物である。母は結構な大荷物を抱えて和服を着、どう思い出しても夏の装いではなかった。家から南下して2、3里ほどの道のりを歩いて行くのである。いつもは市街地を真っ直ぐ行くので50分ほどで着く。しかしこの日、母は少し違ったルートで迂回し市街地を避け、半田(はんだ)という地域の山道を選んだため、2時間以上を要した。市街地の攻撃を恐れたためである。私は文句一つ言わずしっかりと歩いた。こんなにも着ぶくれているのに暑さを感じなかったのは、今何が起きているかを知っていたためだ。山道といっても険しいものではなく、水田などもあり、人家もある居住地域であるが、その日は誰も通らず人気が感じられなかった。静かであった。

 

 ずっと後で聞いたことだが、実は何人かの死骸(むくろ)が溝や草むらに横たわっていたのだという。母はそれに反応を見せず、巧妙に私の歩く方向を指示したため、私は何も気付かなかった。あの穏やかな自然の中にそのようなことがあったとは今でも考えられない。その頃はもう水田に爆弾が投下されたり、山地も例外ではなかった。おそらく厳密に爆撃範囲が設定されていたわけではなく、誤爆や流れ弾も多かったに違いない。今のように精密な電子機器があったわけではないから、確信的なもの以外はパイロット任せだったのだろう。要するに私の一家は運がよかったということに過ぎない。

 

 私は全行程を休むことなく、疲れた等とは言わずに歩き通したので、皆に随分褒められた。確か途中でおにぎりを食べお茶を飲んだように記憶する。この時があることを予測して、朝早くに用意したのであろう。陽は出ていたが身体は何も反応しなかった。

 

 そして無事祖母の家にたどり着き、既に着いていた父や姉と合流した。母の妹も来ており、母の弟夫婦を含めて8名の避難生活が始まったのである。それが何日だったのか、記録と照合しても確定出来ないが、7月も末にさしかかろうとしつつあったことは確かだと思う。

 

  まずは全員一息つき、大勢でそれなりに楽しい何日かを過ごした。お婆さんとはいえ祖母もまだ若かったし、母も30代半ば、実は身重で臨月近かったのだが、皆しっかり立ち働き活気があった。ただ、何事も戦争一色。この郊外の一隅ももはや安全ではないというのが全員の共通認識であり、巷の判断でもあったので、毎日、深刻に先行きの話し合いが行われた。

 

 その危機を乗り切るために、やがて母はもう一働きすることになる。

 

 多数の兵士が海外の戦地で命を落とし、戦う武器も持たない市民もまた、内地にあって死んだ。各地に人々の無念な思いが立ちこめる。津も末期症状を呈していた。



第1章 

戦争の記憶 その4

野田暉行

 

 祖母の家は、畑がかなりあり、水路があり、水の湧く小さな池もあって、作物はよく育ちいろいろと自給できたので、大勢の食事も何とか確保されていた。海が近く裏の畑を真っ直ぐ突っ切れば10分くらいで海岸に出ることが出来た。そこでは日によって地引き網漁が行われていて、引き網に参加すると魚をもらって帰ることができた。朝、海岸に「本日地引き網あり」の合図として黒い球が松にぶら下げられ、海岸一帯の人はそれを見て出かけるのである。漁村ではないので、不定期であり、それに、戦争下でどのように行われていたかはわからない。

 

 津の海は関東大震災で隆起して遠浅となり、100メートル程沖まで背丈に達しない深さの海が続く。最適の海水浴場だった。白砂青松、全国的穴場として、京都あたりからやってくる人も多かった。40年ほどよい時代が続いたが、その後、隆起が元に戻り、今ではその面影はない。

 

 近くに結城神社、通称「結城さん」があり、松阪まで行く近鉄伊勢線がその前にも来ているのだが、機銃掃射を受けてもう動いていない。7月も終りが近くなり、総攻撃があるという情報がもたらされたのだろう、予断を許さない状況となり、人々の心が凍えた。静かだった表の通りが行き交う人でざわめき落ち着かない。ここもやられるのではないか、という現実がそこまで来ていた。とにかく逃げよう、ということで意見は一致した。でも遠くへ行く足も身よりもない。一体何処へ?

 

 そしてついに、今夜が確実に攻撃日だという日がやってきた。運命の夜、全員は総支度をした。命だけは守ろうという決意で、とにかくどこかに避難するほかなく、行き当たりばったりの行動だった。思い出すと、今もその時の感情が蘇り、身体が堅くなる感じがして震えるのを覚える。

 臨月を迎えた母は、気丈に全員を指揮し、手はずを整えていた。先ず最も大切な私を籐の乳母車に乗せた。乳母車が何故あったのかわからないが、新しく生まれてくる子のために運び込んでいたのか、祖母の家に保存されていたものなのか、とにかくかなり大きなものだった。私は底に頭を抱えてうずくまりじっとしていた、一言も喋らず周りの様子を聞いていた。全員とても慌て、あれこれ言いながら、持ち物を集め、次々に乳母車に積み始めた。先ず布団を私の上に!かなりの重さを感じる。もう夜の帳が降りていて全員焦っているのだ。父はリヤカーに荷物を載せて用意しているようだ。私の上にいろいろなものが積まれていく。何が載せられたのかは私にはわからない。じっと動かず息を潜めていた。

 

 積み込みが終わり、全員の緊急相談が始まった。

 

「何処へ逃げるの」先ず殆ど全員が発言する。誰かが「海岸へ行こ」と言う。即座に母が却下する。「あそこは松林で一方が塞がれてるから、火がついたら逃げ場が海しかない。死ぬ。」母の反対に応えて「そうやな。姉さん、川は」妹が提案した。「あかん!川は風で火が吹き抜けて行き場がない。」と母。別の叔母さんが「それでは結城さんの森は」「そんなとこ、森が燃えたら、あんたどうするの。焼け死ぬだけや。」母の却下は続く。「肥たごにつかろうか。」と、叔母さんからさらにとんでもない提案が。今は見られないが、田畑には当時肥料用の汚穢貯めがいくつかあった。「そんなことは最後の手段。」母はあきれて取り合わない。皆、思案に暮れて時間が経つ。その時、妹の方の叔母さんが私のことに気付いてくれた。「ちょっと、暉行ちゃん大丈夫?」「ウン!」と私。ようやく、皆、私を思い出し、顔を出して座らせてくれた。

 

 その時代、殆どの家の竈(かまど)周りはタタキの広間になっていて、そこでいろいろな用がこなせる。上には天窓があって天井は少し斜めになっている。これらの会話もそこに乳母車を置いてのことだ。どういうわけかいつの間にか父と姉の声がしない。後で聞けば、この相談がまどろっこしかったのか、自分について来いというつもりだったのか、先に出てしまったのだそうだ。なんと松阪まで歩いて逃げ、翌朝無事帰り着いた。皆動転しており、時間が迫ってきていて、気は急(せ)くばかりだった。

 

 相談は続く。「そしたら姉さん、どうするの。」妹の詰問に「畑へ逃げよ。カボチャ畑とか。」「エー!そんな怖い。弾に当たったらどうしなさんの。」と叔母さん以下全員が。「畑は見通しがきく。見とったら様子が分かるし爆弾が落ちてきたら避けられる。布団をかぶっとったら、弾は貫通せん。それに周りは青物やから火が燃え広がらん。そうしよ!」強い一言に半信半疑ながら反論の余地がなく、全員同意して家を出たのであった。

 

 真っ暗な道を急ぎ足で、海にやや近い畑に向かう。たしか結城さんの周りを回って南の方向に出たのだと思うが、そうでなかったかもしれない。ただそこから津市街が遠くに望めたので阿漕浦の方角に行ったのだと思う。

 

 何処も真っ暗で不気味だった。畑に着いて乳母車から降ろしてもらい、全員6名、母の指示のもと、畑の真ん中に茣蓙(ござ)を敷き、座って布団をかぶり、端をそっと持ち上げて、奧から街の方向を覗き見る。見渡したところ畑にいるのは我々だけである。このような奇妙な結論に達した人はいなかったようだ。目が慣れてくると不思議に星明かりで周りが見えてくる。

 間もなく遠くに戦闘機が現れた。激しく行き交う探照灯。意外にも機影がよく見える。機体にある小さなランプのせいだったかもしれない。遠くでいよいよ爆撃が始まった。細かく飛び散る火花の激しさ。明るさ。燃え上がる炎の重なり。不謹慎だが、二度と見られない壮絶な美しさだ。あれは高等学校のあるあたりだと叔母さんが教えてくれる。激しい音が響いてくる。攻撃機は3、4機程だったろうか。間断なく落とされる爆弾と焼夷弾。漆黒の闇にその光は異様な輝きを放っている。突如、学校が火と共に崩れ落ちるのが見えた。そして、またたく間に市街地も広範な火に包まれた。

 

 私に寄り添うように叔母さんが隣にいてくれ、並んで見守っていたのだが、叔母さんは手を合わせ「あの学校も燃えていくわ。最後や。一緒に拝もう。」と私を促し、私もじっと手を合わせた。身体が震える。

 

 津市が焼き尽くされるのにさほど時間はかからなかった。終わったのかな、と思った時、驚いたことに、攻撃機が進路を変え我々のいる方向に向かってきたのである。帰路に就いたのだろう。じわじわとかなり近付き機影がはっきり確認できる程になった。機体を見上げる角度になり「こちらへ来るぞ」と声が上がる。その時、パーンという大きな破裂音がし、斜め前方の上空に火花が散った。これもまた美しいとさえ感じる火の散華。焼夷弾である。大きな形と強さは予想外だ。もっと小さなものかと思っていた。ばらばらに弾ける形が見えた。かなり近い。それらは八方にかなり広く不規則に拡散して降り注いだ。そのうちの一つが我々の前方200メートルくらいの所に落ちたのである。強い火が畑の作物に燃え移り、シュシューと激しい音をたてて1メートルほど横に広がった。「アアー!」と全員が叫んで立ち上がる。しかし、母の言うとおりだった。それ以上には燃え広がらず、スーッと消えたのである。こういうことだったのか・・・

 

 それを最後に攻撃機は立ち去っていった。幸いここの近くの海岸には飛び火はなかったが、松は最もよく燃える木である。焼夷弾の破片がそこに落ちていれば消さない限り燃え続けただろう。我々はずっと離れたところに陣取っていたので逃げ場の心配はなかったが。

 

 やっと全員我に返り、無事を噛みしめながら帰路に就いた。結城神社の奧深くが深紅の炎に包まれ暗闇に浮かび上がっていた。それはぞっとする光景だった。全く無音の静けさの中、奧の一箇所がじっと燃えている。怒りの火のようだ。「あ、燃えとる。」思わず言った私の言葉に、母は「うん。」と呑み込むように答えた。焼夷弾の破片はこんな所にも落ちたのだ。全員静かだった。祖母の家の一帯は壊滅を逃れた。聞くところによれば、別の場所では、海岸や川に逃げた人が大勢死に、直撃を受けた人も多かったという。津市外の殆どは一夜にして焼け野原となった。

 

  翌日昼過ぎ、父が家の焼け跡を見に行こうと言って、私を自転車に載せて出かけた。夏の日差しを感じる暑い日だった。人は少なく、歩いている人はよりどころなくうつろで、さ迷っているようであった。

 

 祖母の家は阿漕海岸に近い八幡(やわた)という地区にあり、国道23号線から入ってしばらく海に向かって進んだ一帯なのだが、その区域は殆ど被害がなかった。今も昔の面影を残している。市街区との境に古い焔魔堂が建っており、それも現在、昔のままである。

 

 その見慣れたところを通り市街区に出ると、風景は一変した。見渡す限り瓦礫の山が広がり、いつもは見えていなかった視界が目に入る。デパートのビルが傷だらけになってようやく建っている。いくつか焼け残った地域や建物があるのは不思議である。何処をどう走っているのか私には全くわからなかったが、父が「うん、ここやな。」と言って自転車を止めた。確かにコンクリートの土台跡があるが、周り一面同じような感じがひしめき合っていて、何でわかるんだろう、と思うばかりだった。そこに立った感触を忘れることがない。何か管のようなものがコンクリートの土台から出ていた。ここで防空壕なんかに入っていたら命はなかった。空の白い雲を通して降り注ぐ太陽がむせかえるようだ。ただ、その年は、涼しい夏だったような印象が残っているのは、精神的なものかもしれない。

 

 この空襲以降、もう爆撃はなかった。全国的に、これだけのことをしても降伏しない日本に業を煮やしたにちがいない。月が変わって原爆が立て続けに投下された。世界の誰も知らない未知の恐怖。比らべるすべもない悲劇。でも国民にはすぐにそれが何かを知らされなかった。国が正確に把握しきれなかったのかもしれない。もちろん子供にわかるはずもない。

 

  何気ないことが、痛くなるような感情とともに蘇る。さんさんと降り注ぐ夏の太陽、それを浴びて畦に揺れるとうもろこしの群、よくある光景が何故このように感動的に思い出されるのだろう。

 

   と、ここまで書いて、インターネット上に津市の被害状況について書かれた報告書を新しく発見した。山口千代己さんという方が昭和63年に書かれたもので、「悲惨だった三重県の空襲」というタイトルで四日市市の空襲、津市の空襲にも触れておられる。

 

 少し引用させていただくと、なんと三重県で最初に本格的爆撃を受けたのは宇治山田市の伊勢外宮(げくう)であったという。これは全く知らなかったことでたいへん驚いた。

 

 「7月28日から29日にかけての空襲は、アメリカ軍が今回の戦争で初めて使用したM47焼夷弾によって、死者 1239名、負傷者は数千名をだすほどで、市民はほとんど無防備な状態でした。」とある。新焼夷弾が三重県で初めて使用されたということにも驚かされる。それに、7月下旬というぼんやりした記憶がはっきり特定できた。

 

 「桑名市、鈴鹿市、松阪市にも空襲があり、県下全体の死傷者は 調査結果では6500名余、実際にはもっと多かったのではないか」と書いておられる。

 

 更に、その頁に貴重な1枚の写真が添えられている。津市の空爆後のものである。このような写真を見るのは初めてで、私には特に別格のものである。

 

 言葉に出来ない感情の原点がここにあり、空や太陽、空気、そして思いが、その日そのままに蘇る。おそらく読者には、よく見る破壊後の風景に過ぎないであろう。それは致し方ない。ここにその写真を掲載させていただくのを撮影者、太田金典氏、にお許しいただきたい。

  

 津市を南部から北西方向に見渡していると思われるが、よくわからない。そうだとすると、見えている森は、歩いて逃げた半田の山。祖母の家は、この写真の左をずっと入った下辺り、私の家は右上の向こう辺りにあることになる。あまりにも見慣れぬ風景で、住んでいた私にも確信をもって見当をつけることが出来ない。中心を走る道路は国道23号線である。

 

  殆どの家にはまだカメラがない時代だった。もちろん我が家にもなく、写真は一枚も残されていない。

 

 私の記述はあくまで子供の目と耳、感覚で捉えたもので、データを正確に伝えているものではないことをあらためてお断りしておく。

戦争の記憶 その4 野田暉行 Teruyuki Noda Memory of War
©悲惨だった三重県の空襲


第1章 

戦争の記憶 その5(補遺) 

野田暉行

 

 今にして思えば紙一重の命拾いだった。その時はただ夢中で、こんなものなんだと思っていたが、置かれていた運命はそう容易(たやす)いものではなかったことに、気付かされる。

 

 すべてを失った状態になったとはいえ、久しぶりの安寧と安眠を取り戻し、これまでとは違った日常が戻りつつあった。

 

 梅雨が明けたのだろう。澄み切った青空から燦々たる夏の陽光が 降り注いだ。庭の木々や作物が生き生きとそれを謳歌し、私に印象づけた。空襲警報もなく世の中は暫時静けさを取り戻した。少なくとも祖母の家の一帯は穏やかになった。母は出産が間近となって少しそれに専念できることになったし、大家族は、時々諍いはあったものの、協力し合って毎日を過ごしつつあった。

 

 ある日、叔父さんが近所の養蜂家から蜂蜜をもらってきて飲ませてくれた。そのなんという美味しさ!私には初めての経験で言葉を失うほどの驚きであった。またある日、やはり叔父さんが鰻をもらってきてくれ、全員で食べた。これもまた生まれて初めての美味しさ。たとえようのない感動だった。

 

 なんといっても食の確保は一大事であり、その中でのこういった思い出は消え去ることがない。やがて、弟が生まれ、私には理解できなかったが、独特の取り決めがあるらしく、一度橋の下に置き去りにし、それを拾い上げて迎え入れるという儀式が行われた。名前を決める相談もじっと聞いていた。

 

 その数日後のこと、皆がラジオの前に集まり耳を傾けている。天皇の終戦宣言であった。私はそれを眺めていただけであるが、皆、さしたる反応は示していない。母は終結にほっとして何かを言ったが、気持ちは全員同じだったと思う。その日の晴れた天気が私には最も印象深く残っている。そしてその後、皆の動きが心なしか生き生きとし、活発になった。

 

 しばらくして、多分栄養不足とストレス、戦争と出産の疲れからだろう、母が、三ヶ月ほど寝床の上で過ごす日が続いた。自己診断で十二指腸潰瘍などと言っていたが、そうではないようだった。

 

 そして今度は父が、足に違和感を覚えるようになり、次第に痛みが増して、腕にもその症状が出始めた。今思えば出兵地での落馬と寒さが遠い要因であることは明白なのだが、当時はそこまでは考えず、リューマチだと思いこんでいた。今ではリューマチが様々な症状の総称となっているが、その頃の医師は一つの病気と捉え、様々な治療を試みた。全く効き目はなく何をやっても駄目だった。近鉄伊勢線が開通し、それに乗って松坂の病院に度々通い、私も連れて行ってもらった。電車が間近に見られ、観察に暇がなかった。

 

 店はまだ再開できず、ぐずぐずした毎日が続いていた。何とか家を建てなくてはという話し合いが父と母の間で続けられていたのであろう。12月にささやかながら焼けた家と同じくらいの家が建った。2階はなかったが、周囲がすっかり開け布引山脈の麓まで見渡せる環境は、これまでにないものだった。まだまだ周りに家は少なくほとんどは空き地になっていた。

 

 家を建てる光景に、多くの人が「何でこんなに資材不足の時に」と批判的意見を述べたらしい。確かにその通りである。商売という必然的条件はあるにしても、終戦から数ヶ月での再建は無謀と言えば無謀だ。父も少しそういう意見だったと聞く。しかし母は方針を譲らなかった。母の意見は、来年になれば多くの人が再建を始める。そうなると資材が高騰するのは必定だ、と言う理屈だった。確かにそれは的中し、翌年には材木不足で多くの人が、質の悪い木を高値で買わされることになった。やがてそれも尽き、いわゆるバラックで凌がなくてはならない家も出てきたのだった。

 

 新居には、戦前無かった風呂が設置された。まだ給湯設備などない時代、井戸から水を汲んで釜の下で火を燃やす、いわゆる五右衛門風呂ではあったが、風呂付きというのは庶民の世界ではまだ珍しく、近所の人が度々入りに来た。堅固な作りで、風呂釜以外のところは全面タイル張りになっていたが、釜もタイルも、進駐軍(戦後占領下に滞在したアメリカ兵)が使っていた物を、父が安く譲り受けてきた再利用品であった。

 

 よく水汲みをやらされたものだ。井戸の蛇口に継ぎ手をつなぎ、風呂場の方に回して小さな窓口から差し込んで水を入れる。120回くらいだったか、どうだったかもう覚えていないが、ポンプを上下して満たす作業は重労働でありながら結構楽しかった。

 

 こうして年末には引っ越しが終わり、昭和21年の正月を新居で迎えた。暮のクリスマス頃、当時、その行事はほとんど誰も意識になかったが、繁華街に行き本を買ってもらった。嬉しかった。すでに街は賑わいを取り戻しつつあり、今思うと日本人はずいぶん適応力が早く勤勉であると、つくづく感心する。

 

 祖母の家では、年末29日に餅つきを、2月3、4日頃にかき餅つきを、5月頃には柏餅のような団子作りを、毎年きちんとやる。親戚一同が、すなわち何処へ逃げようかと相談していたあの全員が集まって賑々しく行うのである。実に楽しい行事であった。終戦の年も餅つきはあり、正月には一通りの縁起物食品は揃っていた。思えば神に感謝すべき有り難いことであった。

 

 全員の無事息災を願い、母が神棚に御神酒を供えていた元旦の朝のこと、突然弟が気を失って倒れた。ほんとうに何の前触れもなく突然倒れたのである。父母、姉はもちろん私もすごく動転した。駆けつける医者。でも理由がさっぱりわからない。注射で意識は取り戻したが、それ以来、ときおり遠くを見つめては、しばらく長い呼吸を繰り返す症状が出る、ということが続いた。どの病院でも原因はわからず、治療も何の効き目もなかった。10歳になる頃それはいつの間にか無くなり、全く後遺症もなく治ってしまった。不思議なことが起こる一家である。

 

 父の足はその後ますます悪くなり、やがて右足の膝が曲がったまま固着し一生そのままになってしまった。その足で商売をし、家族を養ってくれた。

 

 先のことになるが、私は、父母の期待と予想に反して、我が家では考えられない縁のない世界へ身を置くことになってしまった。そのことにも結局は納得して、それを支えるべく一生懸命働いてくれた。母も私の未来を信じ、共に店を一生守って働き、大学を卒業するまでの間、親の義務として援助し、その後も働き続けた。感謝している。

 

 私は5歳になった。このように幼少期を過ごした私には、西洋音楽に触れる機会はなかった。ピアノを習う時間など考えられない毎日だった。母は勉強に力を注ぎ、戦時中は、息子が陸軍大将になることを夢見ていた。その夢も戦争が終わって破れ、私にとっては有り難いことであった。

 

 戦後が始まり、世の中はまだまだ混沌としているものの、これまでにない自由の気持ちがいっそう漲(みなぎ)り、人は働き、楽しむようになった。

 

  そんな中、どういう関係で知り合いだったのかは知らないが、かなり離れたMさんの所で素人バンドの練習をやっており、母は私を連れてしばしばそこに出かけていた。週末にやっていたと思うが、別に母が演奏するわけではない。そのうち姉も一緒に出かけ始め、やがてアコーディオンで演奏に加わるようになった。「ホワイトローズ」という精一杯洒落たつもりのネーミングで、なんだかおかしかった。

 

 ある日、ドラムの人が休んだため、私が日頃の見よう見まねで少し演奏してみたところ、結構サマになり一同感心。母は少し得意げだった。もちろんすぐにやめたが、なんだか易しいことのように思えたのだった。

 

 そうこうするうちに演奏会をやろうということになり、私が歌を歌うことになった。ボーカル担当として2曲を歌った。近くの公民館のような会場と、久居の会場2カ所で行われ、客は超満員で皆沸き立っていた。評判はよかった。今やもう見る影もないが、その頃、私は非常に美声のボーイソプラノだった。音程もよかった。

 

 でもこの経験はそれだけとなり、誰もそれを私の音楽性に結びつける人はいなかった。私自身も何の意識もなかったが、アコーディオンに急に興味が湧き、楽器を買って欲しいと頼み込んだ。姉の弾いていたのは借りていたもので返してしまったからである。早速、父が誰かに聞いて一つ見つけてきてくれたが、それはバンドネオン風のボタン式のもので、弾くのに一寸したテクニックが必要だった。一つのボタンが行きと帰りで半音違う音を出すのである。左手のボタンも、的確な和音を連続で鳴らすには音域が狭すぎて工夫が必要だった。マスターするのにさほど時間はかからず、周りの要望に応えて童謡や流行歌などを弾きまくった。一度聞くとたいていすぐに弾けた。

 

 幼稚園に行くようになり、そのことがどうしてか知れ渡って、独奏をステージで皆に聞かせることになった。何を弾いたか全く覚えていない。記憶にあるのはステージ上の自分の姿のことばかりである。

 

 幼稚園は市川先生という優しくしっかりした、 少し年を取った先生のクラスで、いつもとても可愛がってもらった。卒園時には総代として賞状を受け取ったが、リハーサルで園長役の市川先生に向かって歩く練習ばかりしていたので、本番でも横に並んでいる先生に向かって曲がって行ってしまった。母は最初驚き、やがて笑い出した。先生も出席者も全員笑った。

 ボタン式アコーディオンに限界を感じ、鍵盤式のものを買って欲しいと切願したところ、また父が見つけてきてくれた。中古ではあったが当時の価格で800円、雑誌等が10円で買えた時代だから結構な値段だったかもしれない。このアコーディオンとはその後長い間楽しみを共にした。そして今、引退して側に居る。                                               

(この項終わり)


戦争の記憶 その5 野田暉行 Teruyuki Noda Memory of War
©Teruyuki Noda (中央ドラム右=作者、右端後ろ=姉)