第2章 

小学校の思い出 その1 

野田暉行 

      

 少し世の中が落ち着き、ほんとうの意味での戦後が始まった。

 1947年、私は、三重大学附属小学校に入学し、新しい戦後教育を受けることになり、姉も新しい中学で、戦前のあの軍事教練や、教育勅語、やたらと神武以降の天皇名を暗記させられるといったような教育から一変、民主という名の自由のもと、思ってもみなかった学生生活を楽しむことになった。まだ先生達にはとまどいもあったと思うが、とにもかくにも日本は再出発したのである。

 私は戦前の教育は知らない。だから、すべてこんなものだと何の不思議もなく自然に受け止めるのみであり、そのまま新しい時代へと成長していった。

 さて、ここに書き進めるのはほんとうにプライベートな他愛ないことでもあり、私自身の覚え書きのようなものである。興味を持たれるかどうかは度外視させていただき、書き進めることにする。

 

 附属小学校では、入学にあたり試験が行われた。母に伴われて神妙に出かけ、いくつかの部屋でいろいろな試験を受けた。ジグソーパズルのようなものもあったと思う。しかし、何といっても鮮明に覚えているのは、次の試験である。

 部屋の壁、手の届かない高さに帽子が掛けてある。部屋には踏み台や竹の竿、机には野球のボールなどいくつかのものが用意されていて、その中から「何か一つを使ってあの帽子を取りなさい」というのである。私は半ば反射的にボールを何回か投げつけた。帽子は落ちなかった。何となく泣きそうな感じで部屋を出ると母がいて、様子を聞き、「何で棒で取らなかったん?」と言われ、すっかりしょげかえってしまった。ところが、落選を覚悟していた数日後、見に行くと合格していたのである。

 ずっと後のことになるが、母がある先生から教えてもらったところによると、この試験の目的は積極性を問うもので、必ずしも棒や踏み台で容易に取れたからいいというわけではないということであった。そうなの・・・?

 私は未だにボールを選んだ理由がわからないのだけど。

 

 2、3日で入学式だという時に一寸した事件が起きた。小刀で頬を傷つけてしまったのである。

 父はとても器用な人で、いろいろのものをせっせと手作りしては皆を楽しませてくれた。竹とんぼなどはもうあっという間に、いろいろな玩具や戦後で物資不足の折から、机、小机を兼ねた踏み台等、時代が落ち着いてくると、「ササラ」と呼んでいた10本の細長く平らな竹の棒を手の平で返して点数を競う独特の遊び、ついには竹製の麻雀牌まで作った。

 中でも凧作りは名人級で、定番の角凧から奴凧、蝉凧等々各種をたくさん作ったが、圧巻は畳一畳以上もある大角凧だった。竹を割ってヒゴを作り、骨組みを作り、障子紙を貼って、歌舞伎絵や日の丸、孫悟空など凧によっていろいろの絵を描く、更に「うなり」という籐の弓を貼ったような装置を付けて、近くの運動場で揚げるのである。凧の強い引きに耐える太い糸を2、30メートルも収納する糸巻きも尋常のものではなく手作りである。

 走って凧を揚げるのはよく見かける光景だが、父はそうはしない。その大凧をかなり離れたところで私に持たせ、合図でそれを離すと、自らは動くことなく一気に糸を引いて揚げるのである。さほどの風は必要とせず、あっという間に凧は上空の風に乗って上昇して行く。糸を伝って、うなりの共振が耳に届き、歌舞伎絵がほとんど揺れることなく空高くに舞う。糸巻きはとても私一人では持っておれない。あっという間に引きずられ持っていかれてしまう。とても怖い感じだ。

 揚げるにあたっては微調整が必要で、凧には尻尾が付いているのだが、最初数メートルのテスト飛行で、その長さのバランスを計り、回転を止め左右の安定性を得るのである。

 面白いことに上がってしまえば、もうあまりフォローはいらない。眺めて凧が生きているのを楽しむばかりである。

 どのような土地関係だったのか覚えていないのだが、父は運動場から、揚げたままの凧を数軒の家の裏を通って我が家の裏まで引っ張ってきて木に結びつけ、長時間家から眺めたことがあった。ただただ普通の、日常的なこととして感じていたに過ぎないが、今ではもう不可能な貴重な体験である。

 父が最後に作った凧は最大級のものではないが、畳一畳くらいのその「作品」は、今も天井裏に保存してある。ただ揚げ手がいない。先ほどの遊びのササラも数本欠けてはいるが取ってある。そのほかの殆どのものは失われてしまった。

 

 ところで、その日、父は、「サルスベリ」と我々は呼んでいたが、バネを弾くと小さな猿が棒を駆け上るという玩具を作っていた。竹と木を削って部品を作るのだが、その調整のため、木を顔の高さにまで持ってきて、見ながら水平になるまで削る。父は小刀を自分の顔の方に滑らせて削っている。私は何かを手伝いたいと思い、一つの部品を同じように削ろうとした。2、3回やった途端、小刀が滑って顔を傷つけてしまった。力加減がわからなかったのである。入学式は、大きな絆創膏をして出かけることになり、先生方に「野田君どうしたん?」と言われて母は説明に大わらわだった。幸い傷は早く治り、学校が始まる頃には無事元に戻った。しかし私は、出発の時に何とばかなことをしたのだろう、とすっきりしない気分だった。

 

 戦前の国民学校に代わって、市内の各地区に、新しく小、中学校が作られた。同時に三重大学には付属小、中学校が創設されたわけだが、その経緯は少し複雑で私にはよくわからない。とにかく入学した時には男女共学の小学校になっており、私は最も初期の生徒ではないかと思う。まだ独立した小学校校舎はなく、授業は、戦火を逃れた石造りの健在な大学校舎の一部を借りて行われた。

(小学校入学時)
(小学校入学時)

小学生は大学の立派な正面玄関ではなく、横の出入り口を利用することになっていた。部屋は広くピカピカの石の床で、なんだか嬉しい気分であった。

 

 大学校舎を出ると、目の前には藤堂高虎の城跡があり(文字通り跡のみで城はない)、そこへの道は、蓮の花咲く水をたたえた堀の脇を行く桜並木である。毎年、それらの花とサクランボを楽しんだ。

 

 運動場の南面はカラタチの木が厚く続く生垣になっている。端の一角には、戦後特有の土と瓦礫のかなり広い小高い山があり、そこはチャンバラをするにはもってこいだった。

カラタチの花は、歌にあるように何とも言えない情緒をたたえている。嬉しいのは、秋につける実である。いい香りで、大きいのはピンポン球くらいものが成る。一度齧ってみたが酸っぱくてそれは駄目だった。棘に守られた葉には、靑緑と黒の縞模様の大きな幼虫がいて、それは蛹になり黄アゲハなどのアゲハ蝶となって飛び立って行く。

 

 私はこの木が大好きだ。小学校で先ず思い出すのはカラタチの棘とその美しい連なりである。この頃あまり見かけなくなってしまったが。

 (城趾への桜並木)

大学は、後年、都市計画が進展するとともに、移転し、建物は取り壊されて今は新しい市役所が建っている。周辺の環境もすっかり変わり、現在、もう昔の面影は全くない。石造りの校舎が懐かしい。

 

 学校は家から東へ徒歩10分程。よく汽車や電車を見に来ていた踏切を渡って、少し曲がり角はあるがほぼ直進すると、左に滑り台のある小さな公園があり、右手に教会が現れる。                                    

(城趾への桜並木)

 そのほんの少し先にカラタチの生垣が続いて、その先を曲がれば大学である。この道を何度も夢に見る。楽しく、何かミステリアスな感じもあり、とてもなつかしい。その教会では、クリスマスの日、1年生全員がプレゼントをもらい、幸せな気持ちであった。

 登校は適度な運動で快適なのだが、実は朝出かけるまでがたいへんなのである。そう簡単に「行ってきます」と飛び出すわけにはいかない。毎朝、母のチェックがあるのである。先ず洋服のチェック。

 その頃、洗濯は、しゃがみ腰で、タライと洗濯板と大きな石鹸を使って行っていた。上質の生地は、モノゲンという当時としては高級な石鹸を使った。我が家の肌着やシャツはいつも真っ白で、中学生頃にはよく「真っ白ちゃん」と言われたくらいであったが、母は実にきちんと折りたたみ、アイロンがけもピチッと決まって、今考えると見事なものであった。重労働であっただろうに。

 だからチェックも厳しいのである。少しでもだらしない所があってはいけない。さらに、それだけでは終らない。熱い蒸しタオルで顔を拭き、同じように頭も蒸しタオルで揉んだ上、髪の毛を梳かす。次は靴の選択。綺麗に磨いてある。どういう訳か私は革靴を履いていた。そしてランドセルと持ち物の点検。最後に帽子の向きとかぶり方をしっかり押さえて完了。毎年6月1日には帽子に白いカバーが掛けられ、夏を迎える。

 これらが小学校の間、途切れることなく毎日続いた。同時に父が、10本ほどの鉛筆を、専用小刀で毎朝綺麗に、ほんとうに綺麗に(よく広告に出てくる形のように)削って筆箱に入れておいてくれる。それをランドセルに入れて出かけるのである。

 父の鉛筆削りは中学頃まで変わらず続き、多分高校生になって鉛筆削り器を買って終わったのではないかと思う。そのため、私はなかなか鉛筆削りがうまくならなかった。今でも父の域はほど遠い。もう電動削り器一辺倒である。

 ある朝のことである。いつもと違う靴が出てきて「今日はこれを履いて行きなさい」と言う。見れば前に蝶飾りのようなものが付いているではないか。後で一寸した結び目だとわかったのだが、私には見た途端、どうしても女の子の靴に見え、父母はそんなことはないと主張し、私は絶対履かないと言って泣き出し、大騒ぎになってしまった。お洒落のつもりだったと思うが、結局、飾りを切り落とし、しぶしぶ履いて出かけた。もう始業時間が迫っており、父が自転車で送ることになった。もし飾り付きで行ったら冷やかされたに違いなかった。そのようなことは耐えられないのである。 



第2章

小学校の思い出 その2

 

野田暉行

 

 1学年は30数人のクラスがA、B2つあり、メンバーは殆ど入れ替わらずAB交互に6年まで持ち上がる。私は1Aクラスで、男性の紀田先生が担任だった。優しくしっかりした先生は、私の特性をすぐに見抜き尊重してくれた。一つは汽車の絵、一つは外へ出たがらないことだった。

 今後の話のこともあるので、先ず宣言しておくが、母は教育ママでは決してない。父ももちろん。でも子供のやることに常に熱心であったことは確かだ。私が外に出たがらず、友達ともあまり遊ばないことに関して、母は気にしており、早速先生に相談に行ったのだろう。どのような答えだったのか知らないが、母のやったことは、突然野球の用具を買ってくることだった。何人分かのグラブ、ミット、そしてバットにボール。友達とこれで遊びなさい、と言うのである。母自ら、近所の子供達に声を掛けて始めたのだが、皆、新しい用具に大喜びだったが、どうも盛り上がらない。

 今でこそ野球に興味があり、時々見に行ったりもするし、内容的にも多少微妙なこともわかってきたが、何も出来ないことはその頃から全く変わらない。付き合ってくれた友達にもすぐにそれはわかり、時を措くことなく作戦は失敗に終わった。 

 

  一方、絵の方は、進駐軍用の英字新聞見開き全面に描いた汽車を、先生は大いに評価してくれて、教室正面に長い間飾ってもらった。

 

 はじめて夏休みを体験し、七夕から終了式、そして海水浴に至る、これまでにない夏にワクワクしていたが、一方で、計算ドリル、漢字演習を毎日欠かすことなくやり、絵日記、工作などの宿題もたくさんあって、遊んでばかりはいられなかった。

 

 母はわがことのように熱心に付き合った。

貼ってあった絵ではないが、その頃のもの)  

簾(すだれ)を通してやってくるそよ風は気持ちよく暑さを感じなかった。当節は、締め切って冷房に浸りきりだが、決してあの頃のようなさわやかな感じでもない。これは進歩なのかどうか?

午前中、 集中的に勉強をこなし、午後は自由にいろいろなことをしたが、海へ行くのは原則として午前中だった。波が穏やかで日差しの具合もよい。庭の畑から夏みかんほどもある完熟トマトをもぎ取って、お昼に、海の家で食べたのは最高だった。

 畑には(と言うほど広いものではないのだが)実に多種多様なものが作られていて、八百屋に行く必要は全く感じないほどのものだった。サツマイモ、ジャガイモ、茄子、キュウリ、カボチャ、トウモロコシ、トマト、ウリ、何種類もの菜、インゲン、莢豌豆、落花生(これは毎年の土地改良が必要で連作は出来ない)等の豆類、ヘチマ(化粧水とタワシ用に)などまで。そして唐辛子。まだ忘れているものがありそうだ。スミの方にゴミ捨て場がありそこに捨てた柿の種が芽吹き、中学3年、市街整備で100メートルほど引っ越す頃、なんと実が成った等ということもあった。まさに柿8年。渋柿ではなかったが美味しいものでもなかった。

 唐辛子については一言書かねばならない。実はこれは伊勢唐辛子(後年伊勢ピーマンと呼ばれた)という特別種で、現在はもうないと言ってよい。いわば絶滅種である。全国的認知を得られなかったために、時代と共にすべて新しいピーマンに取って替わられた。伊勢唐辛子の味を知らず唐辛子を語る事なかれ。今の洋風ピーマン一辺倒の方々は哀れである。

 最も近い姿はシシトウだが、味も香りも感触も全く違う似て非なるもの。その美味しいさは言葉で表現できない。10本もあればご飯の2杯はいける。

 食べさせたいと思う、もう今はなき伊勢限定のものが他にもいくつかある。

 津市の海岸近くの店でしか作っていなかった蒲鉾。噛んだ時に堅くなく、何とも言えない快感が広がり自然な魚の味とほの甘さ、そして香り。蒲鉾はそういうものだと思っていたら、実はこれも何処にもなく、東京に来てがっかりしたことの一つ。

 餅を一臼搗き終わる時、少し臼に残してそこに醤油を入れて更に二度搗きをする。醤油が適度に煮えて餅と一体になる。その感触と美味しさと来たら。これは、今でもやれば出来るのだが何処でもやってない。私自身は残念ながら出来ない。伊勢には名物「赤福」があり、本店で味わうそれは絶品だが、これはもっと生の食欲そのものである。

 

 そして我が家で搗いて作るあられ。この頃伊勢ではいくつかの店が復活させて販売している。殆ど同じようだが、実はどれも少し違う。あられは熱い湯で溶けるほどにして食べるのが最高に美味しいが、その時少しでも芯が残っていると駄目である。大量生産で機械搗きをしたり、餅米の質を落とすと実現しない。木製の臼であること、大きい杵であることと、手返しという人的作業であることが必須条件であり、それによってのみもたらされるものである。

 

脱線を元に戻そう。

 

 前にも書いたように、津は遠浅の海で、満潮にならない時刻を見計らって出かけていたのかもしれなかった。

 海は7月いっぱいで終わりである。8月はもう誰も行かない。海の家もたたみ始める。土用波はなんだか寂しく冷たく海の表情も暗い。今では8月でも多くの人が出かけるが、いつからそういう習慣になったのが不思議でならない。

 

 でも私は泳げない。野球といい、スポーツ苦手人間である。作曲家の中田喜直氏は、作曲家はスポーツが出来なきゃ、というのが持論で、私も言われたことがあるが、ほんとうにスポーツが得意な作曲家なんていたの?ベートーベンやブラームスが泳いだりサッカーをやる姿なんておかしくて見られたものじゃない。確かに、ホームランを打った時の気持ちはどんなものだろう、と思うだけでドキドキするのだが、一生体験できないことは多い。

 

 学校では音楽の授業だけ別の女性の先生が担当して、いわゆる昔で云う「唱歌」の時間であったが、ある日、「3種類の和音を弾くので、聴き取ってノートに書きなさい」と突然言って、簡単な聴音の試験のようなものがあった。試奏が少しあってのち、いろいろ順番を変えて弾き、聴き取る、いわゆる聴音だ。三和音のもちろん簡単なもの。でも、適当に並べている者もかなりいたりする。書き取ったのを見て回って「野田君、全部出来てる」とほめてもらったが、でも何故やるのかは全然分からなかった。何で急にこのようなことをする気になったのだろう?

 覚えているのは音楽室の右側に座っていて、窓からさわやかな光が揺れながら降り注いでいた懐かしい思いのみ。先生の名も思い出せない。

 大学卒業後間もない新任の先生の気負いがあったのかもしれない。その後は1度もなく、1年の終わりとともに、先生ともお別れになってしまった。

 

 1年生で、何より嬉しく思い出に残っているのは、父に「少年王者第一集」を買ってもらったことだ。山川惣治作・画のこの物語は、その後中学生になるまで続き、私、いや子供達を夢中にさせた。闊達で見事な描写の絵と簡潔な文章。展開の巧みさは魅惑的で、しばしば私達はその先の謎解きを語り合ったりしたものだった。今風に言えば、劇画と言ったところだろうか。

 

 少し後のことだが、筋向かいのやや奥まったところに住んでいるお兄さんが、毎朝私を迎えに来てくれるようになり、楽しい通学が始まった。仲良しの彼と、道すがら少年王者について語り合うのはかけがえのない時間だった。

 

 関係のない余談になるが、思い出すのは彼の家の隣、更に奥まった所に一軒の家があり、いつも不思議な佇まいをたたえていたことだ。夢のように蘇る。少し壊れかけた門の向こうに洋風めいた瀟洒な家があり、そこに至る道の庭には、いつも花が咲き乱れていた。溢れる花はあまり手入れはされておらず自然のまま放置されているようで、私にますます謎めいた感じを与えた。美しくほのかで、春などは日差しとのブレンドが香るようで、そのイメージが今も立ちのぼる。

 そこに芥子の花が咲いていたのである。柔らかく優しく決して強さを感じさせないこの花を、それ以来見たことがない。その頃は違法なものだとは誰も思わず、気にもしなかった。もちろんその住人もそうだろう。どのような人だったか会った記憶が無く、不思議さが残るのみである。母に聞くのも忘れてしまい、もう何も手がかりはない。

 

 戦後すぐの、薄暗い電灯の本屋に連れて行ってもらい、父が選んでくれた「少年王者」を手にした瞬間が忘れられない。1年生には若干難しい漢字があり、最初は父が語り聞かせてくれたが、何度も読み返したものだった。

 第一集から第四集は集英社から定期的に単行本として出され、その後、同社の新しい子供向け雑誌「おもしろブック」の連載となり、何年か掛けて第一話が終了した。

 ある事件から、ジャングルでゴリラに育てられた日本少年、真吾が、動物たちと共にいろいろな敵や悪と戦い成長し、すべての謎が解けて、素晴らしい大人として日本に帰国する物語である。ジャングルブックやターザンに恐竜や悪人達が絡む、秘境ものの集大成のような大作で、大団円を迎える。

 しばらくして、主人公が文明社会で再出発し、また秘境に戻る第二集が始まり、長い間連載された。育ての親の動物たちに再会し昔のような生活が始まるのだが、このあり得ないと思っていたことが、もう20年くらい前になるだろうか、実際に起ったのには驚いた。

 イギリス人夫妻がロンドンで育てたライオンを故郷のジャングルに帰し、後年、様子を見にその地を訪れた時のこと、そのライオンが新しい子供達を連れて草原の森から挨拶に現れ、夫妻に抱きついたのである。その映像を見た時、感動のあまり涙するのを押さえられなかった。現実に動物との交流は他にもいくつかあり、少年王者の世界は決してあり得ないことではなかったのである。

 

 主人公の「真吾」は、今でも何か心疼く存在だ。

 

 私は、それらをすべて、連載の切り取りも含めて今も保存しているが、ほんとうに残念なことに、第一集が、上京する前、気がついた時には消失していた。古紙回収に誰かが出してしまったらしい。今あるのは、後年、集英社の仕事をした折、復刻版をもらったものである。ただ、あの紙質のざらざらした、絵の色彩も紙になじまず質素な感じの原本は、何ともいえない雰囲気があり、忘れられない。

 芸大に勤めてからのこと、週刊文春の仕事をした折、「捜し物コーナー」のようなコラムがあり、そのことを載せてもらった。翌週、持っている人がいるという記事が出て、大急ぎでその方に電話したが、すでにマニアが持って行った後であった。残念!

 あの正真正銘、生まれたての「真吾少年」にもう一度会いたいなー・・・思いは募る。        

                                                                                                                                 (左:復刻版表紙 / 右:原点版第三集表紙)



第2章

小学校の思い出 その3

 

野田暉行

 

  小学生になって、急に勉強に忙しい毎日となったが、それまで経験できなかったいろいろなことに触れる機会も多くなり、心豊かだった。

 復活した津の唐人祭り、映画、そして戦後の慰問に東京や大阪から来てくれる歌舞伎、多くの落語家、漫才等のバラエティ、NHKの公開録音、等々、その頃から数年、すべてを家族で見に行き堪能した。

 

 戦前から母は十五世・市村羽左衛門が大の贔屓だった。昭和18年撮影の「勧進帳」に富樫として出演している。六代目菊五郎、七代目幸四郎という最高度の名人達によるこの歴史的名舞台は、映画撮影され全曲残されている。

 テレビ時代になって一部分を見せてくれたが、全編は、フィルムの摩耗を恐れて歌舞伎役者でなくては見られず、時折、公開上映されるのみだった。その時にはもちろん何をおいても見に行ったが、作曲科の学生諸君を連れて大勢で歌舞伎座に出かけたこともある。今ではデジタルコピーが可能になり、ビデオが販売され、CSでも放送されている。何といういい時代であろうか。

 それにしてもあの戦時中に、このような名演が行われ、またそれを記録に残したとは!日本人は何と心豊かで余裕のある民族なのだろう。弁慶が素晴らしい延年の舞を舞い、最後に六方を踏んで入る瞬間は感動で息を呑むばかりである。いつも涙してしまう。

 子供には歌舞伎はまだ難しく、ほとんどわからなかったが、二代目猿之助(初代猿翁)の構成感のある演技には思わず見入った。

 落語は円歌、三木助、可楽、金馬等々、今は亡き名人達が次々に来てくれた。ただ、文楽と志ン生は来なかった。志ン生は箱根の向こう、すなわち私の居る側には別の人種が住んでいると言って、とうとう来なかったのである。

 漫才界では当時大御所となっていたミスワカナのほとんど最後の時、まだ駆け出しの頃の秋田A助B助、みやこ蝶々等々、これも多士済々。ラジオで聞いていた芸人が目の前で演じる姿に、舞台が生きていることを知った。

 映画も次々に制作され、先般亡くなった大谷友右衛門(歌舞伎界に復帰した後は雀右衛門)主演の「佐々木小次郎」全3巻は、しばらく焼き付いて頭から離れなかった。私はすっかり彼に惚れてしまった。

 もう一つ「小判鮫」(多分、長谷川一夫主演)が、とても面白かった。確か前・後編があり、主題歌もずっと耳に残っている。

 思い出すのは、30年ほど前になろうか、何かで文化放送の電話インタビューがあり、最後に曲のリクエストをすることになっていて、それを掛けてもらったことである。懐かしく聞いた。

 これら映画の、続編の封切りは待ち遠しかった。

 何かの女王というタイトルだったと思うが、若き大女優、高峰美枝子の銀幕の姿にも、しばらくボーとなった。彼女の周りには、実際にオーラのようなものが輝いているのが見え、驚きだった。高峰秀子や原節子など素晴らしい女優達が、映画史に名を残した時代でもある。

 NHKの収録は、のど自慢やとんち教室など人気番組の全国行脚の一環だった。有名なとんち教室の青木アナウンサーを生で見て感激し、また録音はこうしてやっているのかと一部始終を観察できたのも嬉しかった。書けばきりがない、片田舎の出来事である。

 

 以上、少し先のことを纏めて書いてしまったが、1年生に戻ろう。

 アメリカのララ物資というのがあり、日本の子供のためにマッカーサー元帥が米国に要請して送ってくれた粉ミルクとトマトジュースが給食に出された。不味かったという感想をしばしば聞くが、私はそうとも思わなかったし、皆、喜んで飲んでいた。先生が事情を説明し、私は感謝の気持ちで率直に受け止めた。

 たしかに、まだ日本は栄養不足で、そういったものは大いに不足していた。たとえば、私がハムを始めて(生まれて!)食べたのはまだずっと後のことで、それも今のものとは似ても似つかぬものだったが美味しいと感じたのである。

姉とだんだん話が弾むようになった。新しく買った蓄音機でレコードを聴き、よく一緒に歌った。アコーディオンも活躍した。アコーディオンは学校でも少しずつ皆の認知を得て、学芸会、その他の催しにも出るようになった。

 学校では何を弾いたか覚えていない。合奏の一員として加わっていたが、家では、もっぱら童謡や流行歌などだった。タンゴのラ・クンパルシータなども弾いた。まだ名曲に触れる機会はなかった。

 

 少し離れたところの肉屋の小父さんさんが、よく店に来ていて、それを耳にし。ぜひ家に来て弾いてくれと言われたことがある。実は彼の息子とは幼稚園で一緒だったが、よく乱暴され、母の指令で、帰り道に待ち伏せしてやっつけたことがある。その一撃ですっかり大人しくなってしまったのだが、小父さんも見るからに怖い人で、その人からのリクエストをもらってしまったのである。全く乗り気しなかったが、母に言われて出かけることにした。家に入った途端、奥さんが「またこんな者連れてきて」と奧で呟いているのが聞こえる。でも小父さんは次々歌を注文して、一緒に口ずさんだりし、いたってご機嫌だった。いつもと様子が違う。意外や意外。ひとしきり弾いた後、すき焼きをご馳走してくれて、家まで送ってきてくれた。

 

 アコーディオンの方は、1、2度聞けばすぐに弾くことが出来る習性が進化しつつあった。その頃は何も考えず、もちろん方法も自覚など全くなかったが、今考えると、音程とリズムを瞬間に捉え記憶していたようだ。楽譜はまだ身近なものではなく、あるのは音のみだった。

 今になって、その後の成長変化を鑑みると、だんだんと音そのもののみならず情報を聞くようになっていったような気がする。そして、聞く曲の変化と共にそれは急激に変化し、ある頃から音楽そのものを聴くようになった。

 管弦楽曲などを何とかアコーディオンで再現できないかとしばしば試み、無謀にも高校時代には「1812年序曲」等に挑戦したものだった。それが、この簡素な楽器で部分的には実現できるのである。テレビのタイトル音楽などは殆どそっくりに再現できて、弟が感心したこともあった。

 

 ここには一つの発見がある。音楽の構成要素は、大管弦楽であれ、真髄を捉えれば同様の感動を与えうるということである。それは必要以上に複雑な形はしていない。

 ピアノがシンセサイザー的に機能し、ある時代から家庭内の再現装置になり、誰もが夢中になってしまったことはよく理解できる。ただ、現在重要だと思うのは、その逆はあり得ないということである。すなわち、ピアノを弾くことで作品が誕生するわけではない。その別れ目は難しい。

 作曲は何の手も経ることなく、聞こえてくるものを、必要あらば書き留めるという事に過ぎない。それは私の得たモットーだった。耳の不自由だったベートーベンはそれを実践して見せた。でも、それを標榜しとんでもない食わせ物が出てきたりもする。本人の心に懸かったものでもある。「作曲」という言葉は、その狭間の中で揺れて行われることの総称である。

  

 そして、世界のすべては、揺れ動きつつ、逃れられぬエントロピーの運命のもと、減衰へと不可逆の道を辿る。それは、宇宙も作曲も同じだ。宇宙が後退し、いずれ天上に星を仰ぐことは出来なくなるだろうと予想する学者もいる。その理論には少し矛盾を感じるのだが確かめようもない。

 

 ところで、当時の歌謡曲は、作曲家達がかなり力を入れてグレードを上げつつある時期で、程なくしてそれはピークを迎えるのだが、年々、人々の心を捉える旋律が生まれていた。戦後すぐに、疲弊していた人々の気持ちを癒したのは古関裕而氏の「リンゴの歌」であったが、私が「ホワイトローズ楽団」で歌ったのも、氏の「夢淡き東京」だった。それともう一曲、童謡の「月の砂漠」を歌った。

 服部良一氏の曲も広範囲に知られていた。高峰美枝子氏の歌による「湖畔の宿」は姉が好きで、よく歌っていた。氏の「蘇州夜曲」原曲は、情感あるクロマティックな和声付けと彼自身の器楽編曲によって、歌謡曲としては異例のものである。

 どのジャンルも、半世紀以上も前と現在とでは、天と地ほどの差があり、様相は全く異なる。すべての物事がエントロピーを伴って変化していく。

 

 いろいろと手探りのような1年生時代であったが、学校自体がそうであったのかもしれない。私はまだ周囲にすっかり馴染めたわけではなかったが、かけがえのない友達も何人かできた。

 戦前、家の東側にあった軍需工場跡には、戦後大病院が建ったが、その産婦人科部長の令息M君はいち早く意気投合した一人で、度々我が家で一緒に遊び、また。彼には病院に連れて行ってもらって、院長の永井先生のお宅にも伺うことになり。可愛がってもらった。自家用車で近郊までドライブに連れて行ってもらったして、初めての体験でもあり新鮮だった。先生にはその後たいへんお世話になることになるのだが、そこまでの道程(みちのり)はまだまだ長い。

 近鉄で大阪まで出かけたことがあった。初めての長旅と、長い青山トンネルには興味津々だったが、電車は混んでおり、どの人も貧しい身なりであり、急行ではあったが、速度は遅く、ひどく疲れた。大阪は何処も雑然として、戦争の後片付けはまだまだであった。誰かに会ったのだが、その記憶は不鮮明で、街の喧噪とごみごみした埃の感じしか残っていない。

 

 我が家の南の部屋からは、布引山脈の青山トンネルのあたりが見通せるくらい周りに遮るものがなかった。山が近く感じられたのだが、右方に少し見えている鈴鹿山脈の南端の向こうがどのようになっているのか、思い続けた。山の中腹からはこちらがどう見えるのか、海は見えるのか、等々、私には一つの神秘のよう感じられ、その後三重を出ることになるまで、その思いはついて回った。富士山も一度見てみたいと思い続けた。高い山への思いが尽きず、山の不思議な夢を何度も見る。それは今も続いている。



第2章 

小学校の思い出 その4

野田暉行

 

 2年生になり、新しく、とてもしっかりした優しい丸山宣子先生が担任となった。母性を感じる先生だった。それとは別に、算数を黒川隆雄先生が担当され、今思えば贅沢な教育体制だった。

 どの先生も若々しく、しかし経験豊かであり、生徒達に行き過ぎることのない十分な気配りをしつつ、自由な教育が行われた。戦後解放されて間もない頃の独特の高揚感を、今なお私は上手く語ることが出来ないが、思い出すと胸が痛くなるほど、暖かい感情が込み上げてくるのである。伊勢特有の人の接し方もあったかもしれない。私はいつも安心して先生の掌に抱かれていたように思う。あまりにも心に残ることが多いので少しずつ整理して進めて行こう。

 先ず思い出すのは先生方の黒板書がとても美しく、今思い出しても豊かな気持ちになることだ。返ってくる作文評等の走り書きも美しく心打たれた。学校の先生には板書が素晴らしい方がたくさんおられる。職業的練達の見事さ。そのことを体験した人は多いだろう。しかし、就中、丸山先生は特別だった。

 丸山先生、黒川先生、この二人の先生が私は大好きだった。そして先生もまた私を大好きになって、その気持ちは私の小学校時代の核のようになった。

 

(丸山先生からもらった写真と先生の裏書)

 学校には正真正銘の、生徒への思いが満ちており、教育運営上の問題など微塵も感じられなかった。そういう時代だったと総括していいものかどうか迷う。生徒達はのびのびとして畏縮している者などいない。小さな嫌がらせをする、いわゆるガキの類も少しいたが、一応選抜されて来た者であり、あるレベルにはあった。私も含めて、商人やサラリーマンの家庭が大半で、特にエリートはいなかった。

 思い出すと、私は大学に至るまでほんとうに数多くの素晴らしい先生と巡り会った。そういう運命なのだろうか。先生方から心底、親身の、単なる指導を遙かに超えたものを多くいただいた。

 ところで、この学校は教育学部の附属小学校であるため、教生制度というものがあり、年度はじめには大学から何名かの大学生が1年近い教習のためやってくる。いやこの時代はこちらが間借り身分であって大学の方にやってきていたわけだが・・とにかく、小学校の教室で授業をし、後ろで観察している担任の先生から指導を受けるのである。いわゆる教生先生。それは今と同じだが、附小(と略称で呼んでいた)では三重大学の教育学部のみを受け入れていた。 

 教生先生は、やって来ると、殆どの先生がどういうわけか先ず私に目を付ける。何か変わった子だと思うようで、やがて母が呼び出され、これまでの育ち方などを聞かれたりする。参観日でもないのに、突然母が学校に来ていて、振り向くと、授業中の後ろで、小声で話をしたりしていて驚かされる。少し恥ずかしい。このようなことが卒業まで度々あり、中には我が家まで訪ねて来るということも何度かあった。

  2年生の時派遣された藤田曉(さとる)先生は、その中でもほんとうに特別だった。私を自分の子のように可愛いがって、たくさんの思い出を与えてもらった。とても静かで優しい先生だった。

 亡くなられてもう20年以上になるだろうか。最後の数年を除いてずっと年賀状での交換が続いていた。

 丸山先生、黒川先生、藤田先生、この3人の先生が4年生頃までの私にとって、すべての中心だった。母はこの先生方と全く自然に、もちろん先生へのわきまえはきちんとけじめのついたものであり、決して軸はぶれず変わることはなかったが、しかし家族の一員であるかのように遇していくことになった。

どのようにそれが始まったのか私には全くわからない。気が付けばいつの間にか先生方が自分の家でもあるかのように頻繁に我が家に来られ、夏休みや正月にはかなり長く滞在された。戦後すぐ建てた質素で狭いわが家であったが、居心地が良かったのだろうか。父も母もそのようなことに特に気遣いはせず、先生もとても自然で屈託がなかった。私も全く普通のことなのだとしか思っていなかった。

  今ならすぐに問題になり贔屓だの何だのと責められることになるのが必定だが、当時は、父兄全員がこの現実を十分知っていたにも拘わらず、妬みも嫉みも皆無で陰口一つなく、PTAは実に和気藹々としていた。父も母もそのことに全く無頓着だった。

  後年、母はPTA学級委員長のようなことをやったのだが、卒業の日、父兄が異口同音に「このように楽しい父兄会はなかった」と言って、進学に伴う父兄会の解散を惜しんだのである。その光景を私もよく覚えている。同じような感想を高校卒業時にも聞いたことがある。

 黒川先生の授業はとても巧みで、生徒を惹きつけ退屈させることがなかった。お話を聞かせるのがとても上手で、特に「人魚とローソク」は皆を夢中にさせた。話してもらうのを全員期待して先生が来るのを待つのだった。現れると全員が「先生お話-!」と叫ぶ。「うんうん先ず勉強して、その後でね。」「必ずやって-」と言って授業は始まるのである。

 丸山先生はピアノが上手だった。戦争に負けず練習されたのであろう。今思い出すとその手は柔軟で、それは先生の奥行きを感じさせ、ピアノのみならず、全体の豊かさとなって私達を包み込んだ。とても優しく強く暖かい。先生の授業も、もちろん退屈などあり得ない。一方、黒川先生はヴァイオリンが巧みで、我が家ではアコーデオンでよく合奏したが、学校ではピアノの丸山先生が加わって三重奏となり楽しかった。その時はピアノで和音が補充され、とても豊かなものとなるのである。

二重奏では私の左手がその役割となるが、何しろボタンの数が限られており、カバーするために精一杯頑張らなくてはならない。特に、短調のコードボタンが付いていないので、単音ボタンを重ねて作るという苦心が必要である。それを連続させるのはなかなか難しい。                 

 

当時の軽い曲を弾くために作られた、しかも安い楽器だから短調のことなど考慮外なのだ。右手で補う以外、致し方ない。

 

思い出すにつけ、私は素晴らしい先生とよい時代の中にいた。

 黒川先生には、私はもう先生を超えて甘えていた。

夏になると毎日のように顔を出され、しばしば何日も滞在されて家族全員と一緒に過ごした。時には、二人だけで食事をし、風呂に入り、海へ行って、一緒に寝るのだった。私はご機嫌だった。

 丸山先生は一度だけ泊まって行かれた。藤田先生も1回泊まられたのだったろうか。

 

 ただ、藤田先生の場合は、逆に宇治山田市のお宅に呼んでいただいたことの方が多かった。最初は、丸山、黒川両先生と一緒に伺ったが、1泊して、伊勢や志摩に連れて行ってもらった。立派な旧家で、間取りが分からず、ヒソヒソと考え合った。屋敷の中で迷う感じだった。映画を見せてもらい、たくさんご馳走が出て、ゲームをして、特別な時間を過ごしたが、立派なご両親も出てこられ、少し緊張もした。

なんと言うことか、二人の先生の招待に小学生の私が加わっていたのだった。

 その後も私一人で何度かよんでいただいた。写真館で記念撮影もした。

 

  藤田先生とは 1年でお別れになってしまう。寂しかったが、その後、私のために童話を作って、優しい手紙と共に送って下さるようになった。続きが来るのが待ち遠しく、いつも先生のことを思った。

今もそれらは大切に保存されている。右肩上がりの変わった字で見事に統一された文面である。

 

 どの先生も怒った姿を見たことがない。ほんとうに静かで穏やかだった。黒川先生は運動も得意で闊達だが、そのエネルギーは怒りには決して向かわない。

 ただ丸山先生には例外的に一度、怒られたことがある、                             

ある日、放課後に友達と3人、教室でチャンバラごっこをし、大暴れをした。並べてある机など、もうどれも元の位置にはなく教室内はメチャクチャだ。傷つけたりは決してしないのだが、大声で走り回って心ゆくまで痛快に楽しんだのである。それが先生に見つかってしまった。ひどく叱られて2度としない約束をした。それはそれでさっぱり終り、翌日学校ではもう、もとの先生で、われわれも、もとの生徒だったが、保護者会の時、そのことを母に報告されてしまった。先生は淡々と事実を言っただけだったが、私は内緒にしていたので、今度は母から本気で叱られることになってしまった。

 母にはその頃もう一つ内緒にしていたことがある。

 我が家では、テストの結果について契約のようなものがあって、95点以上取れば10円を、90点以上は5円をもらえることになっていた。私は完璧にそれをクリアしていたのだが、ある日、国語の試験が返されて仰天した。87点だったのである。これは母が絶対怒る・・迷った揚げ句、帰り道、家の前まで来た時、破いて捨てることを決心し前のドブ川に捨ててしまった。

 しばらくして、またもや保護者会で成績報告があり母が知ることとなった。ただ今回は意外なオチが付いていた。難しい試験をしたので皆とても出来が悪かった。87点が最高点だったというのである。帰って来て母はその話をし、試験用紙をどうしたのか鋭く説明を求めたが、いつものような勢いはなかった。10円はもちろん5円もお預けである。

 

学校に行くのが楽しく日々新たなことが起きた。汽車の絵は卒業し、風景などに興味が湧いた。

 2年生の写生大会では御山荘橋という車の走れない橋の真ん中に座り、海に向かって何気なく景色を描いた。津市が復興しかかっているのがよく見え、川面が影を映して淡い光が差し込んでいた。特に考えることもなくその場所を選んだ。あるのは質素な8色位のクレパスと、上質ではない画用紙のみ。あまり上手く表現できなかったような気がしていたが、校内展覧会に行くと特賞の金札が貼られていた。とても意外な感じがしたのを覚えている。

 つい先日、久し振りにその橋に行ってみた、今や車が行き交う立派な橋となり、降りたところにあった森とその中に建っていた時代的な御山荘は平地になってしまっているが、海を見た時の情感はこの絵のままに感じられた。何か変わらぬ真髄がこの景色にはある。

   写生の結果がきっかけだったのかどうか、しばらくして、以降中学時代まで毎週絵を習いに行くことになった。更に習字の教室にも通ったが、どちらもいささか億劫な感じだった。音楽の方には母はあまり積極的ではなく、それは我が家の実情に即したことではあったが、一度だけ、ヴァイオリンを小学校のもう一人の先生に習ったことがある。ヴァイオリンを得意とする先生が学校に二人もいたのだ。鈴木メソッドの2巻くらいまで行ったのだったか、曖昧なまま終わってしまった。相変わらず家にピアノがないことが音楽に身が入らない原因ではあったが、それよりも、大いに興味を惹くものが次々身近に現れて、心を奪われてしまったためでもある。         



第2章

小学校の思い出 その5  

野田暉行 

 

  2、3年生にはまだ理科という科目はなかった。国語、算数、音楽、体育が主体であり、社会は特化したものではなく、理科と総合的な内容のものとして行われたようだ。図工は定期的ではなかった。同じく不定期ではあったが漢字や計算ドリルはとても熱心に行われた。授業時間はかなり正確に守られて、給食はもちろん、15分くらいの休み時間もきちんとしていた。

 休み時間といえば思い出すことがある。隣の教室は確か上級生のクラスだったが、ある日、授業が終わって廊下に出ると、突然その担任の朝倉先生が「野田君相撲を取ろう」と言って私を捕まえたのである。先生はとても端正で、一見厳しい感じがあり、私は一言も話をしたことがなかった。突然で、とても驚き、先生が私の名を知っていることにも驚いたが、「あれ、こんな先生だったんだ」と嬉しくなり、キャッキャッとはしゃいで相撲をした。そしてすっかり先生が好きになってしまい、その後も度々対戦した。朝倉先生にもまた、とてもよくしていただいた。思い出すと胸が痛くなる。

 

 理科は、通信簿には科目名は載っていたが、成績対象外となっていた。戦後の、これも特殊性の一つだったのかもしれない。でも私は理科が最も好きなジャンルだった。その目を開いてもらったのは黒川先生であった。          

 

 3年生になる春休み、先生が私をお宅に連れて行って下さり、とても楽しい何日かを過ごした。お宅は亀山にあり、今はとても開けた市となったが、当時はまだ素朴で穏やかな、豊かな自然に囲まれた町であり、暖かい静けさと、人々の営みの心使いが感じられる雰囲気の地であった。黒川先生の人柄はこの地だからこそ醸成されたものだろう、と今思う。妹さんがおられたが、この人見知りの私がすぐに馴染んで、それはご一家全員がそうであった。

 参宮線の終点、亀山は津から3駅目、当時はもちろん大好きな蒸気機関車の牽引で、しかも大好きな先生と一緒で、そのワクワクは夢のようだった。お宅に着いて、それはまた一段と高まったのである。

  このとき、先生にあちこち連れて行ってもらったことは、自然や科学への私の好奇心を一気に高めるきっかけとなった。楽しみの始まりは、近くの川でのつくし摘みだった。菜の花が美しく、空は青くさわやかな風の中、春独特の少し熱く感じる熱気があって、土手ではたくさんのつくしが迎えてくれた。一見してわからないが、先生に言われてよく見ると、まるで待っていてくれたかのような歓迎ぶりである。駕籠一杯の収穫はそのまま夕食になった。初めてでとても美味しかった。お母様の素晴らしい味付けはずっと受け継がれてきたものにちがいない。その後その味に出会ったことがない。

 つくし摘みの後、測候所に連れて行ってもらった。百葉箱のある広場で、先生から気象観測のこと、その白い1メートルほどの箱の中に何がありどのような役目をしているのか、教えてもらった。翌日は映画館に行き、特別に映写室に入れてもらって見学した。先生が館の人に声をかけると、館員はとても親切に案内してくれて、いろいろの技術を説明してくれた。今と違ってすべて手作業の映写は非常に興味深い。2台の映写機が2人のかけ声によって切り替えられ、何巻かのフィルムを途切れることなく続けていく。フィルムに空けられたパンチを目で見て切替ポイントを合わせるのである。終わったフィルムはすぐにリワインダーによって巻き戻され(もちろん手動)丸い缶の中に収められる。映写機の構造やそういった作業に私は目を見張った。映写技師が「映画見てってええよ」と言ってくれる。座席でゆっくりと見せてもらった。何の映画だったかは覚えていない。

 先生は歩く道すがら、花や虫、鳥のことなど、様々な分野に亘って説明して下さり飽きることがない。本当に何事にも詳しく、私は新しい知識の喜びで一杯である。

 考えてみると、私の科学に関する知識は、ほとんどが4年生頃迄に得たもので、その後、時代の進化と供に補充されていったものだ。もちろん専門的追求をしない一素人だが、科学に関心を抱くことなく送る一生でなかったことに、大きな感謝と意義を感じている。

 夜は、星空を見ながら、星座のこと、星のこと、天文の歴史など様々な話を聞かせてもらう。このことは俄然私の心に火を付けた。天文学者になりたい等と夢見始め、天文への思いはその後絶えることがなく今に至っているのである。

 その夜、先生と初めて一つの布団で並んで眠った。そのぬくもりが今も伝わってくる。

 その夏はまた、我が家全体が理科に傾倒した画期的な出発点の時でもあった。

 始まりは黒川先生を囲んで、家族全員が夜星空を見上げたことである。その頃の津は、明かりも少なく空気も澄みわたっていて、夜空には無数の星が輝いていた。家の西側は運動場でずっと開けており、向かいの家はずっと遠く、東もまた塀の向こうは無花果に続く畑であったから、ほとんどの星は見ることが出来た。

 先ずは「大熊座、小熊座」に始まって、カシオペア座、白鳥座、琴座、蠍座・・と定番の星座について先生の説明は続き、星など見たこともなかった父母も姉も実に熱心に首を上げて見入った、弟はまだ幼くて少し無理。「あの丸く並んだ星を繋いだのが冠座ですわ」「ああ、あれがナ」と熱心な父。夏の夜風は気持ちよく、蚊取り線香と団扇と、行きつけの店で買ってくる30本ほどのブルーのアイスキャンディ、スイカ、そして和やかな談笑と共に時は緩やかに過ぎていく。今思い出せば絵のような風景だったかもしれない。

 そしてある日。黒川先生は、その後私が中学生になるまで夢中になり、母を共に夢中にさせ、ついには父も大いに興味を示すことになった、あることを、伝授されたのである。それは昆虫採集。先生は私が自然に大いに興味を持ち、草花や、虫、生き物たちに興味を示すことに気付いたのに違いない。ほんとうに私は何にでも好奇心を抱いた。

 昆虫は、その頃、津市内でも多種多様なものが飛びまわっており、特に我が家の少し先を左に曲がったところには2反(200アールくらいか?)程の田んぼがあり、そこにはいろいろな生物が見られた。蝶、トンボ、コガネムシ等はもちろん。水の中には蛙やどじょう、ゲンゴローやらタガメ、畦の水路にはタニシやザリガニ、メダカと書けばきりがない。米と麦の二毛作をぬって、春は菜の花が、その後にはレンゲが満開となり、飽きることのない私の貴重な遊び場だった。

 今はもう殆ど見かけないシオカラトンボ、モンシロ蝶、アゲハ蝶などが我が家の小さな畑にもしょっちゅうやってきた。最初に捕えたのはトンボだったかもしれない。そして蝶だった。羽の美しさに見とれて、そのままそっと紙に包んで保管した。そこで黒川先生がほんとうの採集の仕方を教えて下さった訳である。

 採集した蝶はそっと死なせて胴に針を刺し展翅をする。残酷なようだが、その頃世の中にはそういう考えは全くなく、多くの子供達が同じことをやっていたのだった。絶滅を危惧する必要がないくらい周りは昆虫だらけだったのだ。

 展翅版というものがあり、中央に溝のある、軽い2枚板で出来た細長い箱のようなもので、蝶の胴体が中央の溝に、羽がその両側に広げられる。幅は10センチ強である。胴体が硬くなる前に羽をそっと広げ、左右の前羽(大きい方の羽)の下線をきちんと水平にし、その形のまま細長い紙で固定して数日おいておくのである。出来上がったものを、ガラス付きの専用の箱に入れて、少しずつ標本を増やしていくのはこの上ない喜びで、次々と違った種類の蝶が欲しくなる。

 こういった技術と方法一式を教えてもらい、実は私以上に母が夢中になった。展翅をする際の、細やかな整えはもっぱら母の仕事になった。一瞬でも気を抜くと羽が破れてしまうのである。採集の仕方にもサジェストがあり、よくある虫取り網みで伏せて獲るなどは小さな子供の遊びでやること。軽く柔らかい布で作られた50センチほどの網袋と長い柄の付いた専用網をサッと一振り空中で掬い取るのが常道である。獲ったあとは、少しお腹を押さえ気絶させてから、パラフィン紙を三角に折って作った「三角紙」に入れて、それを腰にぶら下げたブリキの「三角箱」に収め蓋をきちんと閉める。10匹くらいはその中に入る。こういった道具類は文房具屋に行けばいつでも売っていた。

 通説ではアルコールを注入して死なせると書かれているのだが、それだと乾いてから独特のにおいが残り、乾かない。母は手でやる方がよいといい、その手加減は実に巧みで、いつの間にかそれも母の仕事になってしまった。神妙に念仏を唱えながらやっていた。私はもっぱら採取専任となり、やがてその技術は相当なものになった。

 ある日のこと、近くの田んぼでオニヤンマがいるのを発見した。これは、滅多にある出会いではない。黄色と黒の縞模様の大きなヤンマの威力は、ギンヤンマが大きく立派なトンボだとは言え、較べられるものではない。すごい迫力だ。私は、すぐに家に駆け戻り網を持って、まだ居ることを祈りつつ走った。

 いた!それもかなり低空まで降りて虫を捜しているようだ。一度向こうに引き返し再び猛スピードでこちらに来た。反射的に私は網を一振り。入った!奇跡だ!しっかりと網を綴じ、興奮して私は報告に走ったのである。

 ギンヤンマですら捕えることはそう容易ではない。友達は短い紐の両端に小さな重りを付けて、上空のヤンマのそばに投げ上げ、餌と間違えて食いついて引っかかり落下するのを辛抱強く狙うということをよくやっていたが、成功したのを見たことがない。私も網で2回ほどしか取れなかった。このような次第だから、なにしろ一生に一度のオニヤンマだったのだ。トンボの蒐集はしていなかったが、この時ばかりは、そっと展翅させていただいた。

 蝶の採取は一つの行事のようになった。津市内の主要な場所は行き尽くし、思いがけない成果を上げたが(思っても見ない多様な種類の蝶がいた!)、さらには近郊迄足を伸ばして(文字通り歩いてそして自転車で)夏は何日もそのように過ごすようになった。

 その後、泊まりがけで母と養老の方に出かけたりもした。標本は着実に増えていき、いくつかの箱に分けて入れていたが、ある時父が大きな標本箱を特注してくれて、そこにまとめて収納した。大学時代までそれは健在だった、しかし、その後、痛みが激しくなって、ついに破棄された。

 ただ世の中はこのようなもので驚く訳にはいかない。

 中学生になった時、比べものにならないすごい友人に出会った。彼は小さな箱ではあったが私の数倍の標本を持っており、極めて充実したもので本物の蒐集家であった。私はたちどころに彼を尊敬した。彼はその後どうしてるのだろう。なつかしい。

  私はオオムラサキが欲しくてたまらなかった。コムラサキは採取できたがオオムラサキには出会えなかった。その後、国蝶に指定された蝶である。岐阜蝶にもあこがれた。豹紋蝶科とこの蝶は津には縁がなかった。

 岐阜には「名和昆虫館」がある。三重の隣の県で一度行きたい思いつつ、ついに果たせなかった。おそらく当時全国唯一の昆虫館だっただろう。岐阜蝶はそこで発見され、飼育もされて有名になった。その後あちこちに昆虫館が出来、仕事で地方に出かける折、少し立ち寄った所もあったが、余り期待にはこたえてくれなかった。数年前、与那国島の昆虫館で「ヨナグニサン」の雄姿を見たのが特筆できることである。これは蝶ではなく蛾であり、子供の時から音に名高き存在なのだが、実物を初めて見てその巨大さに圧倒された。

 ようやく「名和昆虫博物館(現在名)」を訪れたのは3年前。ついに念願を果たしたが、昔のママであろうその姿に長き思いが胸に迫り、しみじみと岐阜蝶を見た。ただ昆虫館の規模は今ではもう大きいものとは言えず、時代を思うばかりであった。

 さて、黒川先生から教えていただいたことはまだまだいろいろある。

 新聞紙を細かくし、熱い湯で煮立て溶かした後、それを粘土状にして布海苔を混ぜる。いわゆる紙粘土であるが、それを厚い台紙の上に整形して立体地図を作り彩色するのである。これも一時期夢中になった。後に学校の授業でも同じことを習うことになったが。

 思い出すのは、苛性ソーダで肉厚の木の葉を茹でると、葉は葉脈だけとなり彩色すれば栞のようなアクセサリーとなること。植物採集とその処置の仕方、貝の採集。鉱物の採集、などなど。このような実践的なことばかりではなく、例えば雲母の構造について、石の性質について、草花の構造について、虫の成長とその関係について、そしてそれらの顕微鏡観察などについても教えを受けて、心が科学に向かう過程を顕著なものにしてもらったのである。

 蝶のみならず、植物。鉱石、貝などの蒐集にも熱中した。父の関係の人からだったと思うが、大きな水晶をもらった。加工されてない掘ったままのもので、これら蒐集の目玉であった。

 3年生頃だったか、有名な昆虫学者である神戸伊三郎氏の学生向き「昆虫図鑑」が出版された。私はそれを買えるほど小遣いがなく、足繁く駅近くの本屋に出かけては眺めていたが、重要なことはすべて網羅された傑作であり、座右に置くことを夢見ていた。姉が「誕生日に何が欲しい」と言った時、即座に所望して、ついに私のものとなった。更に母の英断で、顕微鏡を買ってもらった。母はこれらが勉強に資するものと云う考えであった。更に自分が出来なかったことをやってやりたいという気持ちでもあった。音楽には思いを致す経験値がなく、ついに開眼しなかったが。

 ただ現実は少し違う方向に向かい、私の昂じた気持ちは、あろうことか、蠅が卵から成虫になるまでを観察するという実験に結実することになる。詳細な観察日記は、夏休みの宿題として提出したが、感心もされ、嫌がられもされ、であった。

  そのような次第ではあったが、黒川先生は3年生になる頃から、理科の副読本を定期的に買って来て下さるようになり、私は隅から隅まで何度もそれらを読んだ。すべてが血となり肉となるのであった。

 理科が授業科目となったのは4年生からであるが、私の理科への期待は最大に膨らみ、4年を迎えた時は既に十分過ぎるくらいに予習をしていた。

 

 4年になって、新しい教科書を手にした時、これまでのものとはまったく違う画期的なカラーの表紙、今までとは較べようもない艶やかな紙、オールカラーの各頁、生き生きした中身など、新時代の到来に感動し、心はさらに躍るばかりであった。この時代にこの教科書を企画編纂した人達の気持ちこそ、新しい日本の原動力だったのだ。



第2章

小学校の思い出 その6 

野田暉行 

 

 三重県は大きく3つの地帯に分かれる。伊勢と伊賀と紀州であり、それぞれはかなり気候や気風や事情が異なっていて一括りには語れない。「伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ、尾張名古屋は城で持つ」といわれる津は伊勢藩の中心であるが、伊賀藩は山で隔てられており、行き交うには峠を越えなくてはならない。伊賀-伊勢は近鉄大阪線が通っているが、名古屋線とは線路の幅が違い、直通は出来ない。松阪に近い中川という駅で乗り換えが必要となる。この方式は、なんと、伊勢湾台風という巨大な嵐に見舞われて伊勢の近鉄がズタズタになり、大工事が行われた昭和34年、すなわち、私が東京に出ることになる年迄そのままであった。この年については、後にまた触れることになるので、ここではその歴史的事実のみに止めよう。

 一方、伊勢と紀州はもっと鉄道は不便だった。というか一部繋がっていなかった。伊勢の南には志摩があり、伊勢志摩と総称されるが、今でこそ、観光地として繁華な地帯となった志摩も、戦後かなり経つ迄、少し遠い存在の特殊な領域であった。その志摩を更に西南に下ればリアス式海岸の紀州が開ける。車で山を越えて遠くに海岸が見え始める時の感動は、まさに佐藤春夫の「紀の国の五月半ばは」を五感で感じる瞬間である。四半世紀ほど前頃になるか、新しいトンネルが通じて始めて味わった体験であるが、鉄道では、行ったことがなかった。志摩を通らず、参宮線を相可口(おうかぐち、現在 多気)という駅で乗り換え紀勢線で南下するのだが、この線は昔、三木里という所まで先ず開通し、その後、尾鷲、串本と徐々に延伸された。それほど高い山ではないのだが、海に近く切り立つ連山は路線敷設を妨げ、容易ではなかったようだ。三重県の最南端は熊野川が和歌山県とを隔てているが、その入り口、新宮に鉄道が繋がるのは戦後ずっと経ってのことである。

 それを隔てていたのは僅か800メートルくらいの矢ノ川(やのこ)峠であった。そこはバスで行くしかなく、それも実にスリリングなものであったらしい。急カーブを曲がり切れず、バスは崖の端に車体を乗り出して方向転換しなくてはならなかったと聞く。一歩間違えば崖下の残骸。そこを、なんと鉄道全線開通まで何十年も無事故で完遂したのである。

感慨をもって、開通のニュースを聞いたのを覚えている。

 このような訳で伊勢から出ることはほとんどなく、一番近い都会は名古屋であった。このことは伊勢人の気質に何か関係があるのかもしれない。街は穏やかで、何となく昔からの慣わしや地元独特の様々なことが、まだるっこい感じで、よく言えば穏やかに続く毎日であった。今となって振り返れば貴重な時間だったのかもしれない。

 麦畑には雲雀(ひばり)が何の警戒心もなく住んでいて時折天高く舞い上がり、雀たちは集団で飛び回り、燕は当たり前のように軒先にいて子育てに余念がなかった。百舌(もず)は初冬になると鳴き立てながら、すぐ前の電柱に枝を突き刺して生け贄の蓄積に励む(当時の電柱は木製だった)。生き物たちは皆そういった自由さで、それはおそらく、人がそれほどかまわず不必要な関わりを示さなかったからであろう。巷にも何だかのんびりした雰囲気が漂っており、皆穏やかだった。

 街には、まだ馬車や牛車がいて、色々な物売りが、思い出したように回って来たりした。今では考えられないことだ。豆腐屋はもちろん、魚屋、アイスキャンデー売り、焼芋、金魚売り、キセルを直すラオ屋、包丁の研ぎ屋、鍋直しの職人、紙芝居など、落語さながらの世界だった。上方落語では鍋直しはイカケ屋というが、その呼び名はなかった。

 色々な商人が思い出したようにやって来る。中でも独特だったのはマイロ屋である。

 どの物売りも音と共にやって来るのだが、かけ声、ラッパ、風鈴のようなもの等の中で、マイロ屋は際だって特徴的だった。爆発音をバックに笛のような音を長引かせながら、黒い引き車が近づいてくる。車には火の入った円筒とそれに繋がる注ぎ口があって、時々その円筒は爆発音を出して少し火を噴き赤く燃えているのである。それがやって来ると、たいていの家は米を半合程お椀に入れて駆け寄るのである。マイロ屋の小父さんは、米を注ぎ口から装置の中に入れる。火力が強くなってしばらくすると爆発音と共に米は破裂してこんがりとした臭いの柔らかい粒となる。ポップコーンの米バージョンである。そのアツアツを袋に入れてもらって帰る。とりわけ味の付いたものではないが、米のよい香りがする、もちろんポップコーンはまだない時代、誰が考え名付けたものか。他では余り聞いたことがないが、いささか懐かしい。

 しかしこういった物売りはほとんど2、3年で来なくなり、その後復活することはなかった。マイロ屋などは戦前にはなかったので、時代が作り時代と共に消え去ったのだろう。

 それらが消えるとのと時を同じくして、生き物たちも変化していった。何時の間にか雲雀や百舌などの鳥を見かけなくなり、私の住むあたりはさほどではなかったが、市中は整備されて、様子が変わっていった。

 時代とともに急速に変化して突き進む日本の姿の発端であった。その変化について語らない訳にはいかないが、それは後ほど纏めて語るとしよう。

 

 4年生になった。

 その前に思い出すことがある。3年の終り、学芸会でピアノの伴奏をしたことだ。

 記憶が少し曖昧なのだが、たしか、学年後半に女性の岡本先生が音楽専任として赴任された。私のアコーデオンを聞いて「アッ指使いが」と言われ、私はそのようなことを考えたこともなかったので少し驚いた。が、その後全く言われなかったので、私にとっての弾きやすさを認めて下さったのかもしれない。

 先生が突然「野田君、学芸会でピアノの伴奏して」と言われた時、何の抵抗もなく「はい」と言ってしまったのも今にして思えば不思議だ。それまでピアノに興味を感じたことはほとんどなく触れたこともなかった。たしか「まきばの朝」という歌だったと思うが、左手はアルベルティバス、右は旋律の簡単なものだった。先生からは「左手はこの形ね」といったような簡単な説明があって、練習は大学の講堂で3回くらい行なった。他の指摘や練習はほとんどなかった。もちろん家では練習できない。何の恐れもなく歌に合わせて簡単に弾いてしまった。ピアノへの共感は残らず、1回きりの出来事で終わった。

 そして新学年。

 この年、学校は大きく変わり、新しい専用校舎が建った。昨年来進められていた工事が完成し、大学での仮住まいが終わった。大好きなカラタチの垣根に沿って教室が建ち、教員室や音楽室、会議室、放送室等々が、コの字型に渡り廊下で繋がって配置されていた。講堂はなくそれは相変わらず大学が頼りだった。

 運動場も整備され、バックネットや鉄棒、竹登りなどが配置されて、ブランコや滑り台、シーソー、ジャングルジム、遊動円木、ぶら下がり回転遊具などの楽しいものもたくさんあった。竹登りと鉄棒はどうしても皆のように出来ず、駄目だったが。

 運動場は広く西の片隅にはまだ少し瓦礫の小山が残っていた。カラタチは各教室の南面になり、日当たりがよい。 

 

 その時私はまだ、黒川先生と別れの時が近づいているとは思ってもいなかった。

 1学期が終わる頃のことである。先生が数日我が家に滞在された。

 後の楽しい時間を考えながら一人勉強し、ハッと気付くと、先生が居ない。

 「先生は今日は帰らなくてはならないから、と言って帰られた。」と母は言う。「なんで教えてくれないの。」「引き留めると思うのでそっと帰ってもらった。今行かれたところ。」

 その言葉に私はワッと泣き出し、狂ったように家を飛び出し後を追いかけた。「黙って行くなんて」と何だか悔しく虚しく、駆け足で近くの駅まで追いかけたが間に合わず、会えなかった。 

 駅に行く道で号外が配られていた。たしか6月25日。何だか25という数字が頭に焼き付いていて、不思議だったが、1950年すなわち、昭和25だったのである。その日、朝鮮戦争が始まったのであった。号外をもらって帰る。寂しさと、訳は分からないが何かたいへんなことが起きたのだという感じが混交して、不思議な気分で家に帰った。 

  その後、もう先生が泊まられることはなかったと思う。

 2学期になって、突然担任の先生が代わった。丸山先生が転勤されたのだという。驚いたが、既にクラスのことをよく承知されている様子の女性の宮崎先生となり少し安心した。楽しかった黒川先生の算数も代わった。担任の宮崎先生は算数、理科が専門のようで、4年から理科が正規の授業科目になったことで変化が起きたのかもしれなかった。

 こういった色々な変化で、生徒の気持ちも一段成長したと言えようか。授業が大人っぽくなって、雰囲気が少しずつ変わって行った。私は、理科はもうほとんど予習済みで、極端に言うと、今の私の基本的知識はその頃仕込んだものだと言って過言ではない。

 当時よく本に載っていた鉱石ラジオに興味が湧いて、それ以降の私をラジオの組立てに熱中させる要因が芽生えた。庭に長いアンテナを張ってもらって、果たして入るかと思いきや、残念!全く何も聞こえない。何しろ鉱石にアンテナを付け増幅無しに検波だけして鳴らそうなんて無理な話だ。放送局のある都会にいなくては電波が微弱すぎる。という訳で、何とか自分が作ったもので放送を捉えてみたいという気持ちが更に募るのだった。

 当時ラジオはあまねく普及し、機器も進歩して、第1級必需電化製品であった。冷蔵家電などはまだなく、我が家では商売用に大きな氷冷蔵庫を置いていたが、結構邪魔なものだった。毎日、定刻に製氷会社が綺麗に切り取られた氷を配達してくれる。洗濯機が普及するのはまだまだ先のこと。食器洗いの洗剤もなく、油落としには、近くの山(戦争の時、逃げて歩いたあの半田の山)から採れる磨き砂を使っていた。

 ラジオはナショナル(今のパナソニック)などが 新型を出し始めており、昭和初期に父母が買ったラジオはもう時代物となりつつあった。この機器は、テレビアンという会社の製品だったがとても性能がよく、並4と呼ばれる、原理としては初期の素朴な構成のものながら、故障もせずよい音で十分な性能だった。もっとも民放がまだなく、NHKの第1と第2、進駐軍放送が入ればよいだけの時代ではあったが。

 このラジオで毎朝早く放送を聞く習慣がしばらく続いた。床の中で、語学放送やニュースを聞くのは楽しみだった。ある時英語の時間だったか、講師がフィンランディアの最後の歌の部分を英語で歌ったのがとても印象的だった。シベリウスの名も曲名も言わなかったので、もちろん全く知らない曲。言葉もわからないが、でもなんと心を打つ旋律と情感だろうか。私は即座にそれを記憶した。全曲に出会うのはまだ何年か先である。まさかシベリウスの管弦楽曲とは思わなかった。それに原曲には歌詞は付いていないのだ。その感動は想像も出来ないものだった。

  

 当時の通信簿(成績表)は評価が各科目について3項目ほど、それぞれ+2 +1 0 -1  -2 の5段階で評価される。0は普通で、プラスがいいのは見た通り。

 マイナスはもってのほかで、付いたことはなかったが、時々 +1が付くと母は気に入らない。学科は勉強して取り戻せるが、困ったのは体育である。前にも書いたように私は運動苦手人間。なかなか +2など取れるものではない。一度 -1が付いたことがあり、𠮟咤されて大いに頑張ったことがある。要は恥ずかしがらず積極的に行くことである。その結果、なんと+1は体育1個になりすべてのランクが左辺に揃った。母も喜んだが私も嬉しかった。ただそれは1回のみの奇跡だった。

 音楽はとりわけ一生懸命だったわけではない。今、コンクールの審査などに出かけ、子供達が素晴らしく弾くのを聞くと、その演奏に感心すると同時に、その家族環境を作られた努力、社会的状況に感慨を覚えないではおれない。

 その頃、地方の学校ではまだ合唱もままならない状況であった。学校では先生が努力して、先ず2部合唱の練習が行われたが、下声について行ける生徒がほとんどなく、先生が生徒を一人一人聞いてまわって、確かな子をピックアップしなければならなかったが、なんと2名しかいなかった。私はその一人だった。時代の格差に今や愕然とするばかりだ。そんな時を生きていたのだ。

 そのような音楽の授業に、音楽鑑賞が取り入れられるようになった。 

 その授業で私には忘れられないことが起きた。ファリャの「火祭りの踊り」を聞いたのだが、レコードは片面で約5分くらいだろうか。もちろん「火祭り」も面白く、知らないものだったが、気になるのは先生の机上に残っている何枚かのレコードだった。一体どのような曲が入っているのだろう。授業が終わって、私は先生に「さっきの曲の裏をかけて聞かせてもらえませんか」と聞いた。後片付けをしながら先生は掛けてくれた。その時私は、突然幻想を見たように思い、音そのものに心を奪われた。ラベルを見ると、それは「スペインの庭の夜」であった。その最後の部分、何枚かに分けられ、余った片面に「火祭り」を収録した全集の最後の1面だった。暗闇にきらめく光、漂う穏やかな空気。以来、その雰囲気とスペインの情感が私の中で固着し、特別のものとなった。

 その後何度も出会うことになる音楽というものの真の姿。その初めての出会いの瞬間だった。

 学校では色々な音楽教材を勧めており、興味の示すまま、私もシロホンやハーモニカ等々買ってもらって(買わされて)弾いてみた。どれもすぐに弾くことが出来た。器用なのかもしれない。でも家族は誰も何の興味も示さない。

 担任の宮崎先生はその学期のみで翌年はもうおられなかった。黒川先生はおられたが授業は担当されなかった。でも学校でよくお話をした。もう甘える時期ではなくなっていた。

 



第2章 

小学校の思い出 その7  

野田暉行 

 

  5年生になった。思い出をたくさん残しつつ、これまでにない新しい世界が始まった。

街が次第に整備され戦後の雰囲気が薄れていくようであり、それに沿うように学校も新しい感じになった。校舎は心なしかリフレッシュされ、機能的にも整備されて正式の玄関ができた。これまでは大学の側からも自由に出入りできたのだが。

 運動場に瓦礫はなくなり回転ブランコやシーソー、遊動円木などの遊具が設置され、野球場も小さいながら出来、鉄棒、竹登りなど上級生用の体育用具も充実した。この二つは私はほとんど出来なかった。

 上級生は二階の教室の奥となって何だか新鮮だ。カラタチの木は少し目の下だ。

  そして 担任が男性の、竹森、平田両先生となった。私は竹森先生組である。

 二人の先生は元気いっぱい、体育が専門なのだった。さっぱりとした気性と話の早さは快感だった。音楽の先生は引き継ぎだったが、それ以外の授業は先生一人。どの科目もしっかりと、しかも少し大人の情感をたたえて、全員の心構えも少し変わった。

「現実」という言葉を初めて教えてもらった。生徒は、誰もがすぐこの二人の先生を好きになり、苦手であったはずの私が、まず、なんとその筆頭だった。先生の話は面白く痛快、笑いが絶えることがない。授業の中の話題も豊富で、世相、とりわけ反戦の話題からミステリー映画に至るまで尽きることがなかった。幼いながら感じたのは、戦後が始まってすぐの洗礼を受けた先生であったということだ。自由が謳歌していた。

 授業が始まってすぐの頃、「小さい時、ノミが太ももに突き刺さったことがあった」という話が強烈で、何かに付けそのことを思い出すが、授業はこうして始まった。

  体育の授業は、もちろんこれ迄より一段と熱心になったが、まず集中したのはサッカーだった。まだほとんど知られていなかったこの球技を、皆、あっという間に理解し夢中になり、やがて対戦が出来るようになった。

  私がこの球技を好きになったのには、少し訳がある。実は、私はひとり革靴を履いて通学していたのだが、その靴で蹴る力が、ズック靴より強いことが認められて、ホワードに選ばれたのである。先ず仲間として認められ、尊重されたことが嬉しかった。しかも大役である。画期的なことであった。私は大いに走りまくり、ゴールを決めた時の皆の喜びを堪能した。

  全体がまとまり始めた頃、附属小学校チームとして、対外試合をすることになり、竹森先生の故郷である伊賀上野に遠征して2試合ほど戦った。流石に相手チームはわれわれより経験がありまとまっていた。よく頑張ったが勝つことは出来ず大敗だった。少し寂しい秋の日を感じながら帰って来た。

  やがて、サッカー主体の体育授業はだんだん遠のき。私の出番は全くなくなった。

 音楽が私を何となく支配しつつあるようだったが、特別何をするでもなく、主体はやはり学科だった。家の誰もそのようなことに関心はなく、ただのアコーデオン好きでしかなく、勉強一辺倒だった。

 音楽教育はかなり変化しつつあった。合唱クラブなども出来て、音楽室から「月が昇ったまん丸と」(ずっと後年に分かったが、中田喜直さん作曲の合唱コンクール課題曲)などが聞こえてきたりしていたが、参加することは思いつかなかった。それに女声2部合唱で歌っていたようだ。

 音楽の授業では名曲の鑑賞がしばしば行われた。生徒の人気の曲はムソルグスキーの「蚤の歌」だった。リクエストが出るようになったくらいだ。私も数々の作品に興味を持つようになり、ラジオの、後に堀内敬三氏が担当された名音楽番組「音楽の泉」等を聴くようになった。6年生になった頃だ。

 折しも教生に来ていた先生が映画カーネギーホールについて熱心に私に教えてくれたことがあり、ぜひ見てみたいと思ったが、地方の上映はもう終わっており叶わなかった。30年位も経ってからようやく放送で見て、思いを果たすことが出来た。彼はストコフスキーについて夢中になって実に熱心に語り。何とか私にそのカリスマ性を伝えたいと思っているようだった。ストコフスキーのことはもう知っていたが、多分、本から知識を得ていたのだと思う。家にはそのようなレコード等は全くなく、あこがれのみが存在した。

 先生は白髪の素晴らしい指揮姿を身をもって表現するのだった。

 

 ストコフスキーは、ラフマニノフの「パガニーニ変奏曲」を作者と初演指揮したり、当時の難曲ストラビンスキーの「兵士の物語」を指揮するなど数々の功績を残しているが、そういった活動と共にステージに色々なアイデアを加えて、コンサートに新しい伝統を持ち込んだ人でもある。

 例えばステージのみを明るくし客席を暗くする演奏会スタイルは彼の発案だ。一時、指揮者のみにライトを当てる、果てはその手のみを照らす等ということも試行したようだ。

指揮棒を使わない指揮も彼のアイデアだ。そして新しいメディアに大いに興味を示し、「オーケストラの少女」、ディズニーと組んでの「ファンタジア」など名作を残した。「カーネギーホール」ではチャイコフスキーの交響曲第5番第4楽章を演奏している。この映画にはハイフェッツやワルターなども出ている。文字通りよき時代のメモリーである。

 思い出すのは「オーケストラの少女」について、我が師、池内先生の話。先生のパリ時代の友人にトロンボーン奏者がいて、彼はその映画に出たのだそうで、それをとても誇りにしていたとのこと。映画の時代性と共に面白い話である。

 

 もう一人の教生先生には、授業中に思いがけないことが起きた。

 社会の授業だったか。スムーズに進んでいた時である。海の話が出てきた、と、突然、様子がおかしくなり、目が遠くを見つめたようになり、そのまま崩れるように教壇上に倒倒れてしまったのである。後ろで聞いていた竹森先生がゆっくり立ち上がり教壇に向かう。やがてすぐに正気に返ったようだったが、気絶してしまったのである。

 後で聞くと、何日か前、友人と二人、ボートで河口から海に出たところ、転覆し、友人が溺死してしまったとのことであった。優しい先生だった。

 

 私も、プランクトンを採集したいと思い、義兄に頼んでそのルートを連れて行ってもらったことだがある。丁度この頃だ。この河口はボートレース等が行われ、狭くはないが侮れないものを持っている。夜は暗い灯台が照らすのみだ。深夜に行ってライトで海を照らし採集するのだが、灯台を離れると海は真の暗闇となる。薄気味悪い感じだ。河口は離岸流が強く油断ならない。他の河口で大勢の中学生が亡くなるという事故も起きていた。義兄は水泳堪能、ボートもプロ級で安心だが、あまりもう一度行きたいとは思わない。きっと教生先生はボートを持っていかれたのだろう。私は自分のことを思い出してふとそう思った。

 

 伊勢は海とは切っても切れない関係だが、竹森、平田先生の思い出として、まず海の林間学校を語らずにはおれない。2クラスの全員と希望者の父兄と共に伊勢志摩の無人島に出かけるのである。

 現在は観光施設もある離島であるが、当時は住んでいる人はなく、放置された校舎があり。諸設備も使える状態だった。伊勢志摩には多くの小島があるが、その中では最大の島であり伊勢湾の入り口

で外洋に接している。

 そこに一泊する夏の楽しみ。初めての計画で、その後も続いたかどうかは知らない。

 こういうことにはもちろん私の母も参加し、全員、賑々しく張り切って出かけた。鳥羽からは船で答志島まで渡る。大きめの漁船だっただろうか。その頃は、志摩は三木本真珠の筏が湾を埋め尽くしている他には殆ど何もなく、国鉄線は鳥羽が終点。近鉄は宇治山田迄でまだ延長されていなかった。今では志摩一帯は大がかりなリゾート地となっており、近鉄は英虞湾の賢島まで延伸されている。

 着いて一休みし、すぐに近くの砂浜へ海水浴に出かけた。水は澄み、心なしか全体に怜悧な感じがある。見渡せばかなりの岩場。津の浜辺とは違って。何か受け入れてくれないものを感じる。海に入って驚いた。2、3メートルも進むと海底がぐっと下がるのだ。しかも波は穏やかなものではない。抗しがたく海の力に持っていかれそうだ。私はびっくりしてすぐに浜に上がってしまった。泳ぎの得意な者も面食らっているようだ。先生も少し危険を感じたのか、長居をすることなく引き上げる。その後岩場で釣りなどをしている者もいたが、私は眺めるばかり。風は結構冷たかった。

  さて、午後遅めになって一大イベントが行われる。運動場に生徒父兄全員が集まり、周りを取り囲む中、先生登場。一同を笑わせたあと、何と鶏を衆目の中、手慣れた手付きで括り、夕食の材料とするのである。今なら大問題になるところだ。その頃はまったくそのような感覚はなく、全員手を叩いて喜んだ。何しろカシワご飯は当時何よりのご馳走だったのである。

 こうして夜は更け、われわれは室内でそれぞれに話したり騒いだり。ただ大騒ぎする者はいなかったが、先生と父兄は浜辺で酒を酌み交わしつつ楽しく歓談したとか。

 

 旅から帰って。先生は、夜、学校を暗室代わりにして、撮ってきた写真の現像、焼き付けをし、われわれにくれた。写真の制作はとても楽しい作業で、実は私も参加させてもらった。夜遅く学校に行くのも面白かったし、知らなかった現像焼き付け作業は大へん勉強になった。当時はカメラ屋にそれら素材一式を売っており、その後、私も使用して自身で楽しむようになったのである。

 

  附属小学校は、原則、附属中学への持ち上がりである。しかし、1クラス分くらいの外部募集があり持ち上がるはずの何名かが落ちることがある。持ち上がりといえどもいやそのためにこそ、5年から6年にかけては授業が重要で、熱心で密度の濃いものとなった。母の激励もますますエスカレートし、通信簿を左に寄せる(最高点+2にする)ことへのこだわりは最高度だったが、体育以外は維持していた。このことはあとで少し意味を持つことになったが、それについては次の章で触れよう。

 

 6年生の大きな世界的出来事は、ヘルシンキでオリンピックが行われたことだ。戦時中にベルリンが先を越えて行っており、これはその代償らしいが、そんな事情は知らなかった。

 「フジヤマの飛び魚」として世界に冠たる水泳の王者、古橋、橋爪は、もう世界選手権の時のような成績は上げられなかった。たちどころに欧米が研究したのだ。日本人で最初の金メダルはレスリングの選手だった。

 当時の放送中継は今では想像できないもので、長波を使用していたため、周期的に音が聞こえなくなったりする。うねりを伴っていた。今のクリアな音声、映像等予測も出来なかった。

 私が最も感動したのはファンファーレだった。5音で構成されるテーマのリフレインはフィンランドの情感を瞬間に十分感じさせるもので、私はシベリウスの作曲かと思っていたが、どうもそうではないらしい。分からないままになっている。戦後の新しい明るさを世界に伝えたイベントの音楽しか覚えていないのは、私の癖である。

 

 映画もしばしばそうである。当時は学校が映画館を借り切って新作映画を鑑賞する機会が多かったが。色々な映画を見に行った。ディズニーなどはほとんどそうして見たのではなかっただろうか。

 ずっと後年に分かったのだが、「海底二万哩」という映画がディズニー制作だったとは知らなかった。というのは音楽のことだけが強く心に残っていて、肝心の筋書きなど何も残っていないからである。しかも、その音楽が実際見た映画とはひどく違うことが後に分かった。テーマは同じなのだが、まるで違う音楽。考えてみると映画を見ている時、どんどん自分でアレンジして、それを記憶してしまったらしい。深海の遠くからソプラノが情感深く近づいてくる(はずなのだが)映画はまったく違う。ドキュメンタリー映画だと思っていたのも間違いで、劇映画だった。

 見終わったあと、隣にいたO君が「野田君は音楽のことばかり言ってうるさかった」と迷惑そうだったのは、こういうことだったのか。                               

 音楽については時と種類を問わずいろいろなことがおきる。例えば、その後に見た「リチャードⅢ世」は優れた内容にも増して音楽が素晴らしかったが、見たあとに読んだ新聞の映画評が気に喰わなかった。まったく音楽に触れていないのだ。私は腹を立て、評論家の無知を嘆き、母達に文句を言って鬱憤を晴らした。この映画のことも、ずっと後にわかり、作曲者はウォルトンであった。

 

  小学校最後のイベントは修学旅行である。それに当たって、私はカメラを買ってもらった。まだ誰も持ってない頃、流石に最も親しい写真屋の友人は持っていたが、あとは先生のみで、嬉しかった。

 旅行は、京都大阪行きで、どうしてそんなに近いところへと思われるかもしれないが、当時津から京都へ行くことがあまりなかった。津と京都は交通の便が悪く意外に行きにくいところだったのだ。私はもちろん初めてだった。

 京都駅に着いて先ず行ったのは三十三関堂。その多数の仏達。圧倒された。各名所を巡ったが、どういうわけかこの三十三関堂のほの暗い中に浮かび上がる仏像が頭を離れない。

 もう一つ強く心に残ったのは大阪電気科学館だった。全国で唯一のプラネタリウムが大阪にあったのだ。ホール中央に備え付けられた、まさにメカニズムの権化のような金属の機械は、見るだけでドキドキさせる。確か「白鳥」の音楽で始まったと思う。現在のみならず、あらゆる時のあらゆる空をたちどころに再現する機械に、尊敬の念を覚え、私の天文好きの情感が震えた。

 色々な行事が印象深く過ぎていった。

 

 いよいよ小学校の終わり、家では卒業式で読む答辞の練習が、父母の指導の下毎日念入りに行われた。前年も、送辞の練習で同じようなことをやっていた。挨拶文は巻き物に父が毛筆でしたためた。このような習慣、現在もあるのだろうか。気が入らず何だか鬱陶しかった。一つでも間違えると大変なので一生懸命やった。

 

 学校は、竹森先生の最後の授業となっていた。それは歴史の長時にわたる俯瞰から、前史を経て仏教伝来に至る大きな授業だった。実に印象的で、一瞬の間断もなく淀みなく進み、全員がその話に魅せられていた。強く心に訴える気持ちで終わったあと、先生は言った。

「歴史の勉強は多分中学に行くとつまらなくなるだろう。でも勉強しなくてはいけない。」

 確かにその通りだった。小学校の時の溢れる感慨は戻ることがなかった。 

 卒業式を迎えた。入学式の時と同じ大学講堂。ここは何も変わっていない。答辞も無事終えて、すべては思い出の中に閉じこめられた。

 終了後、父兄達は実に和気藹々として歓談し合っていた。このような楽しいPTAはなかったというのが全員の言葉で、母は満足そうであった。日ざしは燦々として、私は一瞬。戦時中を思い出した。

  ずっとあとで竹森先生に会った時。

自分の人生であの時のみが教育だった、他にはない、という言葉を聞いた。

 

  

B組6年生になった頃 

休憩時間の教室に平田先生に呼ばれて撮影。

戻ったらもう授業は始まっていて、

竹森地先生は少し文句を言った。