思い出の中に




前書

野田暉行

 

この連載を始めるにあたって(前書きに代えて)

 

 昨年静かに喜寿を迎えた。思えば長く生きたものだ。しかし今の世の中、喜寿や傘寿はそう珍しいことではなくなった。環境の変化によるストレスの軽減や、医学の発達、そして平和のお陰で日本人の寿命はどんどん伸びつつある。だから昔の人ほど長生きの実感がない。

 

 モーツァルトやシューベルトがあの若さで亡くなり、あのように偉大な仕事をしたのに比べて、現代の長寿はあまり意味がない。とりわけ作曲に関しては。

 

 それに脳自体が真の長生きでなくてはますます意味がなくなる。そういった自戒の念を踏まえつつ、幸い脳がまだ正常に活動している今、これまで頭の記憶装置に書き込まれてきた種々の思い出を、今の感覚で呼び覚まし、記録しておこうかと思い立った。

 

  人間の記憶は、先ず脳の海馬がそれを担うらしい。海馬が満杯になると徐々に別の記憶装置に格納されるらしいのだが、それがどこかは知らない。奥深くしまい込まれた記憶は意外に健在で、新しい記憶は必要度に応じて捨てられるようだ。年齢とも関係があるのだろう。いずれにしても科学的に正しく認識しているわけではないが。

 

 さてこれから始めるこの一文であるが、私は自伝を書くつもりはない。一つのテーマに沿って年代的に記憶を辿っては行くが、年代的切り口による整理は行わないため、時代を何度か辿る、ということにもなりそうであるし、また、その都度思いついた脇道に分け入ることを厭わないので、多分話は多くの枝葉を持つことになるだろう。ただ本題の目的は見失うことなく必ずその元に辿り着くので、どうぞご了承の上お読みいただきたい。

 

 どの時代を生きる人間も、自分の歩んだ時を振り返る時、時代の流れと変化に驚きと感慨を抱くのに違いない。近年の研究で、日本の縄文時代が1万8千年も続いた世界最古の文明であることが判明した。その間、狩猟民族として変わらぬ体制が維持され続けた。その時代の人も、やはり自分の一生に亘る変化に感銘を受けていたであろう。しかし、その緩やかな変化を辿った時代に比して、私達の時代はなんとめまぐるしい変化であろうか。なかでも私の体験した時代は、もう別種のはるかに想像もつかない短期間の変化の時代であった。それら様々な事象を、個人的な目で見たまま思い出して、記録しておくことも無駄ではないだろう。思いついた時に書くため、定期的なものでないことをお断りしておく。