第3章

中学校の思い出その1

野田暉行 

 

 「戦争の思い出」を書き終えた時点で、つい話は小学校時代のことになり、卒業まで来てしまった。時代的に辿る予定はなかったのだが、やはりその後に起きた変化にも言及しない訳にはいかないだろう。という次第で、中学から高校時代に起きた主要な事柄、更に大学時代の思い出にも触れて、このシリーズを完結することにしたい。

 

  自分で言うのも恥ずかしいが、小学校卒業時点で私は秀才であった。巷では知る人ぞ知るといった存在であったようだし、今考えれば私自身もそのように感じていたのだろう。

 私の、入学感謝答辞で入学式が終わり、中学校生活が始まった。授業参観日の最初に、担任の先生が母に言ったのは、日比谷-東大という当時最先端の道を歩ませなさい、ということであった。母は大いに喜び、私には思わぬ重圧がかかることになった。

  新しく授業に加わる科目の、英語強化のために、すぐに、家から近い所の特別の先生に習うことになった。暖かい素晴らしい先生だった。たちまち英語が好きになり、実に多くのことを教えていただいた。先生は海外のペンフレンド(ペンパル)を探して環境を整えて下さり、早速、交流が始まった。ペンパルはインドの同い年の女の子で、明らかに上流階級の、大人の感じのある利口で可愛い人だった。将来、外交官になりたいと言っていたがどうしただろうか。

 写真交換から始まり何度も手紙の往来があり、象牙のペンナイフをもらって日本人形を送るといったやり取り等もあって楽しかった。ある時、どういう訳か突然ワルツを作って送った。もちろん作曲という意識があったわけではなく何故そうしたのか未だにわからない。ステキな曲だと返事が来たが、曲と言えるものではもちろんなかった。

 

 急速に音楽が頭の中を占めつつあった。音楽の授業は、多分新任の、女性の先生で初々しく新鮮だった。初めての授業に、先生はピアノソロをやって全生徒を魅了し、授業はいつも先生生徒共に熱心だった。先生は藤堂高虎の末裔である。城の跡に藤堂家の家があって、そこに住んでおられたと思う。音大を卒業した直後で魅力的だった。ショパンの幻想即興曲を素晴らしく弾いて、私はすっかり魅了された。毎回授業の始めに、私はこの曲の演奏を懇願して弾いてもらった。「野田さん、他の曲もあるのよ」とある時先生は言って多分ノクターンを聴かせてくれた。それもいいが、やはり幻想が一番だった。

 夏休みに名曲を聴いて感想を書くという宿題が出た。私は始めてストラビンスキーの「火の鳥」などを聞いたりして、まだよくは分からなかったが、いろいろな曲に新しく出会うことになった。ほとんど、知らない曲ばかり聴いた。楽想の豊かな曲に出会うと、ほんとうに心動かされ自分も作ってみたいと思うのだった。その最初のひとつが、ペンパルのローシャン・ラトナーガーへの贈り物だった。その頃、黒い厚表紙の五線帳を持っていて大切にしていた。そこに、でたらめの曲(のようなもの)を書いては一人夢見始めていた時代であった。

 

  附属小学校から附属中学校への進学は持ち上がりのような形で移行したが、簡単な進学試験があって数名が脱落した。そしてかなりの数の外部募集を受け入れ、クラスは各学年3クラスに増えた。新しく出会う友達は新しい世界を感じさせ楽しく、直ぐに大勢の仲良しが出来た。

 

 さて、そんな中、夏休みを迎えるにあたって、何人かの希望者で飯盒炊爨(はんごうすいさん)のキャンプに出かけようという計画が持ち上がった。参加を決めた時、母の耳に別のグループが同じ計画をしているということが届いたのであった。附属小学校出身者のみのグループとは別に、新入生と合同のグループがあるというのである。さてどちらに参加するか、母には大問題だった。どちらにも義理立てをして遺恨のない様にすべきではないか、というのが母の考えだった。

 ところが、驚いたことに、蓋を開ければ行き先が同じだった。

 三重県の北方に御在所岳という山があり、途中までロープウエイで有名な湯の山温泉迄行けるのだが、それとは全く別のルートを通ってそこに行き着こうというのである。両グループとも、先ず登山で中腹まで行き、2日のキャンプ。そして頂上を越えて湯ノ山に行きロープウエイで帰るというものだった。1200メートル強の山ではあるが、なかなか侮れない。頂上を越えるには岩場の綱渡りのような所があり、間違えば谷底に一直線である。

それを迂回して登る道もあってそちらの方は危険は少ない。新グループはそちらを選んでいたが、旧小学校グループの方は岩場登山を計画していた。6年生時の担任だった両先生が同行するという。

 思いもかけぬ事に母は両グループとも参加しては、というのである。易しい方には自分も参加するという。私は内心うんざりしたが、母の言い分にも一理あると思い両方参加に従うことにした。

 テントを張っての飯盒炊爨は楽しく貴重な体験だった。小さい頃から山への憧れが強く中腹から下の景色を見るのはどんなに感動的だろうかと期待したが、林の中の川の畔で、それは果たせなかった。2回目に岩場を渡る時は、かなり危険を感じた先生が足を踏ん張り、一人一人手を取ってリレーで私達を渡らせ、無事湯ノ山に辿り着いた。2回参加者は私のみだったが何とかすべてをこなし、夏休みはこのことで終わってしまった。

 

 山はいつも私にイマジネーションを与えてくれる。度々夢の中で私は不思議な現象の山中にいる。長いスロープで下っている山腹に科学的研究のための建物があり、その中で静かに何かが行われている。一点から電波のような波長が感じられ、遠いソプラノの静かに伸びた響きが聞こえてくる。時は夜明け近くの静寂、微かに東方が赤く染まっている。

私はその感情を表現することが出来ない。

 

 さて、帰ってしばらくしてから不定期な腹痛が始まった。今になって考えればだが、明らかにこのキャンプ疲れの後遺症だったのではないだろうか。吐く事もあり治る気配が無い。

 ついにある朝、学校に行く事が出来ないほどになってきた。休みを取って近くの大きな病院で診察を受けた。母は、病気に先天的な勘が働く人で、これは尋常ではないと判定して連れて行ったのである。その病院の院長は小学校の時、私を車でドライブに連れて行ってくれたり、珍しいテレビを部屋で見せてもらったりして可愛がって下さった方である。診察はその方ではなく新しく病院に来た若い医師であった。母が「何か異常がある」と訴えたが食中毒でしょうということになって、注射を一本打ってもらって帰った。

 

 母は疑問を持っていた。翌日、大学病院で再診療をしてもらうことになった。長時間いろいろと調べたがやはり分からない。その時私は昨日打たれた注射のことを思い出し、ふと打たれた注射の名前を言った。ドイツ名を覚えていたのである。それを聞いた途端「ああ、それを打たれたのでは何も分からない」と医師は驚き、しばらくじっと考えた結果、「明日学校に行ってもいいでしょう」と言ったのであった。

 

 中学校は、これまでと違って遠くの農学部の畑と牧場の中に建てられており、海まで歩いて行ける所にあった。家からは15キロくらいの距離だろうか。電車で行けば2駅目。駅からは徒歩で国道23号線に出て、そこからは広い畑の中、水路に沿ってしばらく歩かなくてはならない。長い徒歩を入れると30分では着かない。そのため自転車で通うことになり、ピカピカの新車を買ってもらって通っていたのである。

 

 医師の許可が出て、翌日その自転車でいつも通り出かけ、授業を受け帰途に着いた。小学校3年の時写生した絵にある橋を渡って帰るのであるが、渡り終えて家の方向に右折した時のことである。突然例えようのないとんでもない激痛が腹部に走った。何か異変が起きた!動けない。じっと自転車に伏して引くのを待ったがますます強くなるばかり。何か回虫のようなものが腸を食い破ったのかと思った。とにかく家まで辿り着こう。ペダルを回転させるのは不可能で片足ずつゆっくり足を降ろしながら、必死で家の前の地面に到達した。降りることが出来ない。直ぐに家から父と母が飛び出して来て抱え上げてくれ、そのまま横になった。身体全体が異常な感じになり、見ているガラス戸が揺らぎ始め定まらない。たいへんな発熱。母が直ぐに電話をし、しばらくして救急車が到着。中から医師が跳ぶように降りて診断した。あの注射を打った病院のあの医師である。見た途端「一刻を争う」と叫ぶように言って直ぐに病院へ。病室が空いておらず看護婦室に寝かされて待った。父母ももちろん駆けつける。もう速く手術してほしいという気持ちが強くなる。ただ意識ははっきりしていた。

 いよいよ手術が始まった。院長自ら執刀である。「あの野田さんの坊ちゃんに何かあっては」とのことだったそうだ。母は「手術室の中で見ていたい」と申し出たらしい。院長を困惑させていたが「大丈夫ですか」と言われ「死に目に会えないのは耐えられない」と答えているのが聞こえる。そして父母共に私の横で見守ることになった。これは本当に例外的な特別扱いであり、父母はもちろん、院長にとっても相当な覚悟あってのことだったろう。

 私は麻酔が効きにくい体質のようで、大きくなってからも歯医者の麻酔等1回の注射では効かないことが多かった。麻酔技術はまだ今のように発達しておらず、この大手術が半身麻酔で行われた。痛い痛いと言い続けるうちにようやく薬が効いてメスが入った。その後静脈を止めるのが分かった。その一部始終をはっきり記憶している。母は私の手を手術が終わるまで握り続け、声を掛け続けていた。 虫垂が膿んで破裂し腹中にそれが飛び散ったことが、この事態の原因だった。しかも移動性の見つけにくい虫垂炎であった。そのため院長は「ない!ない!」と探さねばならなかったらしい。患部を手早く処理した後、腸を全部出して腔内をペニシリンで洗浄してから元に戻し傷を縫って終わった。長く感じて苦しみの連続だったが、20分くらいだったそうだ。しかし、その途端、院長はさっと私の身体を左に傾け、その右脇腹にメスを入れたのである。「あれー!何をするの」と父母は仰天したようだ。そこからゴム管をさっと中に入れてすべてが終わったのである。

 これらは後で母から聞いた話である。院長の手さばきは実に的確見事なもので、大胆緻密、本当に感心したと言っていた。当時抗生物質はまだペニシリンしか開発されておらず、これが最先端の治療だった。この時点で私は、「一生傷」の持ち主となったが、今までそれに関する問題は起きていない。すべての仕事や出来事がこの身体で現実のものとなり、今日まで到達した。こうして無事に生きてこられたことに感謝している。

 

   手術は無事終わったが、その後の闘病生活はたいへんだった。病室は暫く空かないまま看護婦室のベッド上で20日間の絶対安静に耐えなくてはならなかった。腹部には布団が当たらぬよう半弧形の枠が置かれており、毎日ゴム管から何とも言えぬ臭いの血膿が排出される。油紙等は敷いてあるが、次第にそれも透過してシーツが汚れるので取り替えてもらうのだが、その染み込んだ毛布などの跡はいくら洗濯しても落ちなかったそうだ。

 

 私は目だけを巡らしながら、いろいろ思い続け、部屋の壁を見る毎日だった。母は毎日通い続けた。何日目だっただろうか。目が突然銀色にビカッと光って周りの人が逆さになったように見えた。瞬間、私は気絶したらしい。母が「先生たいへんです!!」と駈け出して行くのが聞こえている。その時は知らなかったのだが、気絶しながら一部始終が聞こえていたのだ。出血多量だった。直ぐに止血注射が打たれ、その後輸血が行われた。父も母も姉も採血に参加し、足りない分は輸血の機関から賄われた。

 

 最も仲のいい友人にこの病院の産科部長の息子さんがいて、彼は学校で「野田君は危ないかもしれない」と言っていたそうである。後で知った。

 

  いろいろな事があったが、長く書きすぎたのでここら辺で終わりにしよう。退院は2ヶ月後の11月になってからだった。退院後もしばらくは家での穏やかな時間が必要だった。

本を読んで過ごす毎日だった。学期末の試験の少し前頃、学校に復帰したのだったろうか。ほとんど授業は受けずに試験となった。成績は首位を維持していた。多くを小学校時代に得たことで賄っていた。

 

  後日、この私にとっての一大事を原稿用紙20枚程に纏めて提出したところ、廊下の壁にすべて張り出され皆が読んでくれた。ただその後その原稿は返っては来ず行方不明となってしまった。もちろん今手元にない。それがあればもっといろいろなことが思い出せるのだが、今はもう一部のことが記憶にあるのみである。これに限らず紀行文集等も、一部の写真等が抜け落ちて返って来たりする時代だった。あまり気にしていなかったので、今は残っていないものが幾つかある。

 

   中学1年はこれらのことで終って2年がやってくる。



第3章

中学校の思い出その2

野田暉行

 

 2年生は、今思うと、一生の大きな転換期であったかもしれない。その頃はまだ何事も不安な時だったが特に意識もなく、自分が将来どうなるのか、なりたいのか、何も考えていなかった。近年のスポーツ選手などは、この時期どころか、もっと小さい頃からその道の訓練を始めるのだから、ほんとうにすごいことだ。感心してつくづく思うばかりだ。

 ただ、そんな状態の中に、何となく勉強への執着力が以前ほどでなくなり、何か新しい事への思いが湧いて来るのを感じつつはあった。と同時に周りの友人達のありようも変化していった。が、そのことに思いを致したのは、ほんの最近のことだ。当時は何も考えたりしなかった。後になって母から、クラス内には恋愛的なこともあったと聞いて、そんなものかなー、時代は今と変わらないんだなと思ったものである。私は高校を卒業するまでそういったことに全く関心がなかった。それ以外の考えることは増え、いつも持ち続けている感じだったが、今にして思えばそれはやはり音楽だった、一時もそれは心を去らなかった。

 

 藤堂家の末裔である音楽の先生は、2年からは新しい先生に代った。寂しくはあったが、新しい先生は男性のとても気さくな方で、直ぐに仲良くなった。当時、都会から時折名前を聞かれる有名な演奏家が、地方公演で来てくれる時は、市内唯一の公会堂に真っ先に駆けつけた。必ず音楽の先生と一緒だった。辻久子さんのヴァイオリンを聴き、東京の大学オケなども聞いた。それが始めての生オケ体験だったが、ナマで「運命」を聴いた初体験でもあった。クラリネットの調子が悪く、あるいは楽器が少し故障したのか、残念な演奏だった。

 先生とはよく一緒に出かけ、「ラプソディ」という映画も一緒に見た。

 これは私に強い印象を与えた。レマン湖畔に沿ってドライブする車に流れるメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲。チャイコフキーの協奏曲を主体としたレッスン風景など、想像もしてなかった美しさとロマンで、すっかり魅せられてしまった。映画の方は、結局、師弟は意見が合わず男性のヴァイオリニストは帰国し、恋人のピアニストは残って別れるという話ではなかったかと思うが確かではない。

 その後暫くして「未完成交響楽」という映画が津にもやってきて、これは一人で見に行った。今見ればなんということはない音楽中心の映画で、筋書きは、私の癖でぼんやりとしか記憶にない。ただ、繰り返される未完成の美しさと自然さに感情が高まった。我が家にはこのジャンルのレコードは一枚もなく、もっぱらラジオでいろいろな曲を知っていったのだが、その映画で聴いてその美しさに深く感動した。少し異なる体験だった。

 その後、ラジオの名曲の時間で未完成を聴いた時、私は涙を抑えることが出来なかった。映画ではある部分のみが何度も演奏されたのみでわからなかったが、全曲を通して聴く時、感動は最高度に高まり、涙せずにはおれなかったのである。私もそのようなシンフォニーを書きたい、という思いが急激にみなぎり、早速五線紙に向かった。毎日歌っては何か思いつくものを書き留めるという習慣がいつの間にか普通になっていった。

 スコアにするということは知っていた。最初、第1ヴァイオリンを最上段に書いたが、なんだか違っているような気がして、ふと、以前、音楽室に、作曲家の写真入り年表が貼ってあり、そこに自筆楽譜があったのを思い出した。音楽の先生に頼み込んで、もう倉庫に行ってしまった年表を出してもらった。あった!スコアのいくつかの写真。ずいぶん歪んだ書き方のものが多い。でもそこには多くの情報が溢れていて、どうして貼ってあった時に、もっとよく見ておかなかったのかと思いながら眺めた。確かベートーベンには、第1ヴァイオリンを最上段と中段とに書いた2種があり、彼も同じ考えを持ったのかな、等と呑気なことを考えた。でも楽器群毎に分けて書く歴史の決定がよく分かった。

 

 その頃、何冊かのスコアを買ったのかもしれない。そこに詳しい解説があってソナタ形式を知り、心にふと旋律が聞こえ、シンフォニーを書き出したのだった。それは今も覚えているが、第2主題の終まで書いて先が分からなくなり、そのままになってしまった。簡素な和声しか付けることが出来ず、旋律主体のものだった。今でも書いたものは覚えている。

 

 2年の時だと思うが、終戦後のアメリカからの慰問であろうか、学校に音楽の映画が来て校庭で上演された。トスカニーニのために作られたオーケストラの、彼が去ってから作られたものだったと思う。指揮はソア・ジョンソン。最後はチャイコフスキーの「花、円舞曲」で終わる、知っている曲ばかりの楽しいもので私は聞き惚れていた。が、突然。打ちのめされることが起きた。

ボロディンの「ダッタン人の踊り」が演奏され、私はその曲を知らなかった。明快な表現、民族的な楽想、それらの美しさに圧倒された。後年オペラ全曲を見たが、この曲のみが別の存在である。これとイゴーリ公のアリアが印象的だ。

 

 ボロディンの側にいた女性の回想録があり、彼女は彼の隣室にいた時、ボロディンが最後の部分を即興で20分ほど歌いながらピアノを弾き、泣いていたという。

 現在の曲にはそれはなく、序曲はグラズーノフが書いたもので、全曲はコルサコフと二人で纏めたものである。残念だ。ボロディンには美しい曲がいくつかある。交響曲、弦楽四重奏曲、そして、管絃楽曲「中央アジアの草原にて」

 何十年も後の話だが、私は「現在、作曲されている曲が幾つあるか知らないが、『中央アジア』1曲ですべて吹っ飛ぶよ」と言っていたことがある。

 ただ、ボロディンは中央アジアへは行ったことがなかったらしい。

 

 こうして、私のささやかな音楽の一生の旅は始まった。今にして思うことであるが。

 

 自転車での通学は続いていた。あの忌まわしい、橋を渡って右折する道は通らなくなった。裏道を通って川に出て、川沿いを行くのである。そして、小学校の時写生した「御山荘橋」を渡って帰る。距離的にも少し近い。が、何よりも川縁の土手道には夢があった。途中には自転車で降りることの出来る河川敷があって、私はしばしばそこで、枯れ草に身を委ね、ぼんやりとした時間を過ごした。人はいない。西に夕日が沈む時刻はとても美しく、穏やかで静かだった。身体に様々な感情が去来し、心の空間に何かが立ち上がろうとするのだった。先ほどのシンフォニーもここで姿を見せてくれたものだ。

 薄い赤と青、それに暗さに向かう白雲が薄く被るやさしいグラデュエーション。これは私の原風景だ。

 

 余談になるが、私の奥さんは、小さい頃からずっと富士山の見える環境にいたと言う。

それらは人生に、気付かないうちに影響を与えているだろう。大人になって音楽と向き合った時、心に何かをもたらしたに違いない。

 富士山は当時の私には手の届かない憧れの存在でしかなかったが、何度も山の夢を見て想像をし、あこがれた最高の存在だった。今はマンションから毎日、日の出から日没まですべてが見渡せて、富士山も丹沢の山の上に頭を出している。

 作曲はすなわち自然。それなしに考えられるものではなく、各人、必ず胸に秘めているものがあると思う。

 

 当時私はいろいろな事に興味があり、思いつくことを何気なく容易に表現できた。もちろん考えたものではなく、出てきたままの素朴なものであるが、小説めいた文章を幾つも書き「自作文芸」と称して表紙を作り、そこに絵をデザインしたりしていた。

 絵は、習っていたせいもあるかもしれないが好きで、得意だった。

 ある時写生大会があり、農学部にあるサイロを描くことになった。図工の先生が授業で総括的な批評をやった時、「皆同じだがこの絵だけ違ってユニークだ」と言って黒板に掲げたのが私の絵だった。何故だか全く分からない。先生が指摘したのは、私の書いたサイロが全体ではなく、上部が書かれておらずカンバス外になっていることだった。何故そうしたか私自身分からなかったが、先生は解説をして褒めてくれた。はじめてなるほどと思ったものだった。私自身思い当たったのはバランスを取ったということだった。書きたいものがサイロのみでなかったということになるのかもしれない 

 クラスの文集を作った時、休憩時間に担任の先生から言われて、その場で即座に表紙をデザインした記憶がある。2分くらいの仕事で我ながらいいものが出来た。思うと何かが即座に出てきて率直にものを言う楽しい時代だった。

 あとはラジオの組み立てと蝶の採集、

 そして天文への尽きぬ興味だろうか。 

        

 生き甲斐のあるひとときだった。

 このような次第は、あまり母の気に入らなかった。東大なんてもう私の中には何も存在しない。当然それは母にも担任にもそれとなく伝わった。

 母とはついに衝突。2週間ほど家を離れ、姉の嫁いだ家で過ごさせてもらうことになった。困った母は、私を呼びに来て、英語の家庭教師の所に連れて行った。説得してもらおうというわけである、その時の先生の言葉は素晴らしかった。ラジオの組み立てが大人になって役立つことがある。今決めてしまってはいけない。と熱心に説き伏せ、そして、音楽と聞いて、「ほーう」と感慨深げに頷いたのである。母は半信半疑で帰らざるを得なかった。私は人生の岐路に立っていたのだった。しかし全くそう思っていなかった。

 

 3年生になる時、一応の勉強の結論として奈良の女子大学附属高校を受けることで、可能性に託すことになったが、私はそれが嫌で仕方がなかった、その上、その学校は県内の受験生しか受けることが出来ず、母は、一時私を寄留して奈良まで連れて行ったが、受けさせてはくれたものの当然真っ先にはずされた。これで一件は落着し、あとは運命に任せて邁進することになる。

 

 中学2年という年は、私もだが、どの生徒も知らず知らずのうちに変化の時に立たされる。周囲の友達に起きる変化に戸惑いもいくつかあった。教える方にもそれは起る。

 一度だけ、後に立たせた生徒に鉄拳をふるった先生。それよりも滑稽だったのは。何の授業か忘れたが、明けても暮れても製図しか教えない先生がいて、私も高い用具を買ったが、あまり役に立ったことはない。

 もっとも仲のよい友人が授業の直前にガラスでかなりの怪我をし、私も保健室に付いていった。授業の最初に少し遅れて教室に入ると、その教師は突然、遅れを詰(なじ)り、理由を聞いてさらに怒ったのである。瞬間、私は教師を心底軽蔑し無表情のまま席に着いた。友人もそうだった。

 ある先生は、教師用赤本の読み間違いだろうか、フィラメントを「フライメント」と言い続けた。私が小学校3年の時覚えた用語だ。 

 この様な戦後の残骸がまだ残ってはいたが、先生によっては溌剌としており全体はよい学校だった。

 ただ中途半端なカリキュラムの過程で、何の役にも立たないとしか思えないホームルームのような時間もあった。生徒によっては狡いことを身につけ始め、悪いことを考えたりするようになって行った。しかし何と言っても偏った具合の悪いものは投書箱だった。まるで則天武后の時の「銅キ」*のようだ。私は何も書かず無視していたが、ついにこちらに向かって投書があった。*(キはハコガマエに軌と書く

 

 ある日、教室掃除の折、3、4人で廊下の窓を拭いていたのだが、私が丁度手を伸ばした時に1枚が割れた。その中の一人が私が割ったと言い張り、客観的な事実を言っても状況も聞こうとしない。一目置かされている相手にひと泡吹かせる時が来た、と思ったのであろうか。何を言っても聞く耳を持たない。そしてその後、そのことが投書され問題となった。先生が読むまで事情は知らなかったので、何も言わず説明だけしたが、先生も私を疑っている様子だった。

 帰って母に言うと、たいへん怒り、早速、自分の言うとおり書いて投書しろと言う。文章はもう忘れてしまったが、犯人は知っているというのが最後の一行だった。暫くして担任がそれを読み上げた時、教室はシンとなって、以降、誰もそのことは言わなくなった。あっという間の一件解決

 私は大きな勉強をした。後に担任は、にやりとして私に「犯人は実はわかっていたんだけどね。」と言ったのだった。そして投書箱は直ぐに取り払われた。問題の彼も大人しくなった。私は母に少し感心した。

 

 戦前、家が直ぐ近くで、戦後は離れたが、方向は同じなのでよく一緒に自転車で帰る友人がいた。2年も後半になると、生徒達に親分子分のような関係のグループが出来、彼はその子分の一人だった。話すことも何か通じなくなり、私はほとんどを聞き流していた。

 ところが突然ホームルームで彼は「野田君は人が話しているのに聞いていないことがある、けしからん。」と親分の威を借りて発言したのである。あまりに唐突な突然の一言に、何も言うこともなく私はニコリとしただけだった。憤懣やる方ない彼の様子のみ思い出す。

 最近になってやっと分かったことだが、子供は中学2年で変化する。現代は騒騒しい世の中のせいでそれが早まりつつある。親が気を遣ってやる時ではないだろうか。

 

 まあ思い出すのはこのような下らないことばかりだ。ただ一つ特筆すべき事がある。

 私は2年生の頃から放送部に入った。といっても誰もやり手はおらず私一人が任された感じだった。学校の設備は当時としては充実したものであり、副調整室と8畳ほどの防音の行き届いたスタジオがあった。運動会くらいしか使う機会がなく荒れた状態だった。私はそれを整理してかなり立派な副調にした。もう古びたワイアコーダーがあり、小型のベロシティマイクがあった。これはかなり高価なものだ。当時はこういった機器の切り替わり時で、ソニーのテープコーダ(商品名)は何年か前に完成し市販されていた。でもワイアコーダーも十分使え、コンソールデスクは中学生には十分すぎるものだった。機器を見て私は夢中になった。足りないものは専門の電気屋が来て補給してくれ、日常的に面倒を見てくれた。

 時はまたSPからLPへの切り替え時期であったが、学校もすでに交換を終えており、廃棄するつもりだったのだろうか。片隅にSPが山のように積んであった。プレーヤーはLP-SP両用のものだった。一番上にあった1枚をかけてみる。何と鳴り出したのは「運命」!私は打たれたようになって聴いた。まさに運命の出会いであった。

 次々にすべてを何日もかけて聴いた。充実したひととき。すり減ったレコードは1枚もなく音質もよい。1枚だけ草色と白の中に何か書かれた一部が割れたレコードがあり、それは途中からしか聴けない。かけると夢幻的な雰囲気が立ち昇り、ドビュッシーの牧神だと分かった。

 

 このスタジオからの有線は全校の教室に行き渡っており、各教室にはON-OFFのスイッチが付いていている。私はこの名曲達を番組化して、昼休みに流せないものかと考えた。折しも、友人のK君が放送部に加わってくれた。彼はアナウンスに興味があり、盤石の体制になった、早速彼と相談し名曲アワーとして始めようという事になった。原稿を私が書き東京出身のK君が美しく話す。最高だ。

 最初は驚いていた皆が熱心に聴くようになっていった。丁度昼食の時間で食べながらのひとときである。半年くらい続いただろうか。

 ある日、うるさいといってスイッチを切ろうとした輩がいたらしい、ところが全員「聴きたいのに消すな」と言って直ぐにスイッチを入れ直したのだという。嬉しかった。聞くところによるとその輩は、私に言いがかりを付けてきた例の子分君だった。

 放送が軌道に乗ると、これも流してほしいという申し出がいくつかあり、家から大切なLPを持ってきてくれたりした。他にもスタジオで聴く会など様々なことをやったが、K君が辞めると言うのをきっかけに放送は終了とした。

 その後私は、これまでやった曲すべての解説文集を、ガリ版刷りではあるが作成し、冊子に製本して、私のクラス全員に配布した。私も1部取ってあると思うが、今、どこに入れたか思い出せない。