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月刊おんきょう 1968年6月号掲載

クラシック談義第4回 楽譜のはなし (連載Ⅰ~Ⅴ)


 Ⅰ. 完璧ではない世界共通文字
 「音楽は世界の言葉」といわれます。同様に、「楽譜こそ、世界共通の文字」ということができるでしょう。国や時代の異なった様々な人間に再び共通の音楽を呼び覚まさせてくれるもの「おたまじゃくし」は、人間の最も高度な発明の一つではないでしょうか。現在の記譜法が完成されたのは、ようやく17世紀頃のことですが、それ迄の楽譜の様々な変遷は古の人々が、その捉え難い音楽の美しさを如何にして後世に伝えようと努力したかをよく物語っています。もちろん、現在の楽譜も、あらゆる場合に完璧な方法であるとは限りません。例えば、それらは、あくまで西洋音楽を中心に考えられたものであり、日本の伝統音楽や多くの民族音楽等には、殆ど役立たないということがあります。あるいは又、西洋音楽であっても、現在の記譜法では処理しきれない場合がしばしば起こります。バッハやショパンのピアノ曲の解釈が演奏家によって違ったりするのはそのためです。特に著名な演奏家の解釈は一つの版として残され、例えば「チェルニー版バッハ」とか「コルトー版ショパン」等という具合に呼ばれる習わしになっています。

 

 
Ⅱ. 大変な総譜読み 
 オーケストラの譜面は、スコア=総譜と呼ばれます。スコアは、鳴っている色々な楽器を一度に示すために、1ページが約20段から30段あるいはそれ以上もある五線紙に書かれます。各楽器は、上段から、木管楽器、金管楽器、打楽器、弦楽器の順に整理されて記入される習慣になっています。このように、スコアにはあらゆるものが雑居しているため、それを読むには、ピアノの譜面等よりは、一寸手間がかかります。演奏に先立っての指揮者の譜読みが如何に大変であるか、ご想像いただけると思います。

 大作曲家ワーグナーにおもしろい逸話があります。彼がまだ全く無名であった17歳の時、彼は暗中模索、苦心惨憺して一曲のオーケストラ曲を書き上げました。それは、全曲を通じて4小節毎に、太鼓がえらい勢いで叩かれるという、彼にいわせれば、「荒唐無稽の絶頂」のような曲だったのですが、しかし、若い彼は絶対の自信を持ち、初演に際しては、そのスコアに歴史的大工夫すら凝らしたのでした。すなわち、指揮者の便宜を計って、彼は、木管楽器を緑色のインクで、金管楽器を黒で、弦を赤でといった具合に色分けして写譜したのです。これは中々よいアイディアのような気がするのですが、未だに譜も採用していません。因みに、その演奏会は実に印象的なものだったそうで、聴衆は、太鼓奏者の頑固さに最初は驚き、やがて呆れ返り、遂には笑い出して、ワグナーを閉口させたということです。

 


Ⅲ.スコア量のレコードホルダー
 ワグナーといえば、おそらく、彼は、歴史上最もたくさんスコアを書き残した作曲家ではないかと思われます。近頃、日本でもようやく演奏の機会が見られるようになりましたが、彼の作品は、殆どが簡単には上演できない程大規模なものであり一曲で数時間を要するものが少なくありません。それらは、一般に「楽劇」と呼ばれていますが、オペラでもドラマでもない彼独自の様式による音楽です。彼は、先ずその台本を書き(それらはワグナー全集として残されています----彼の名は文学史上にも登場します!)次に作曲をしそして指揮をしたのでした。大変なエネルギー!我々は、彼の全作品をただ書き写すだけで半生が終わってしまいそうな感じです。

 ところで、一曲で最も多くのページ数を持った曲は何でしょうか?その答えには、一人のミステリアスな作曲家が登場します。名前はニコラ・オブーホフ。余り聞き慣れない名前ですが・・・ロシアで生まれパリに亡命した今世紀の人です。彼は、独唱、合唱、二台のピアノとオーケストラのための「生活の書」という曲を1924年に完成しましたが、それがなんと2000ページもあるのです。もっとも、彼は、一生にこの一曲だけしか書きませんでした。全生涯を捧げたのです。更に、彼は、そのスコアを彼独自の記譜法で記し、その一部を自分の血で書いたりしたそうです。この曲が全曲演奏されたことはまだありません。

 こういった巨大な作品とは反対に今流行のミニに匹敵する短いスコアを残したのは、現代の作曲家ウエーベルンです。もちろん、作曲中は、彼も数多くのページを何度も書き直したにちがいありません。しかし、曲として残されたページ数は、前作品を総計してもワグナーやオブーホフに及ぶものではないのです。彼の全作品30数曲はレコードにして3時間9分程。一曲平均約6分という短さです。2分足らずで終わってしまう作品もあるのです。

 

 

Ⅳ. 時代と共に歩む楽譜
 楽譜とりわけスコアの変遷は、そのまま音楽の変遷を代弁しています。正直なところ、ベートーベンやシューベルトの自筆楽譜というものは、それ程綿密に書かれている訳ではありません。あの時代の音楽様式では、最小限必要なことが分かるように書かれてさえいれば、それで十分でした。バッハの自筆には、強弱記号はおろか速度記号すら書かれてはいません。それらは演奏家が自然に感じるもの、と彼はいっています。あの時代に於いて、それは十分可能なことでした。ところが、社会の複雑な発展と共に、音楽も徐々に変化を始め、スコアに書かれるべき不可欠の要素はだんだんと増えていったのでした。現代では、もう、ベートーベンのよう譜面は通用しません。現代のスコア、実に精密に美しくあらゆる要素が記入され、すべての演奏家にとってその曲の把握が容易であるように配慮されています。ご覧になった方はその複雑さにきっと驚かれたことでしょう。

 

 
Ⅴ. こんな方法もあります
 現代では、様式は不定なのです。したがって、ある種の様式にとっては、従来の記譜法は全く無意味でしかありません。例えば、最近では、「グラフィックスコア」という記譜法がしばしば行われます。これは、音譜を一つ一つ積み重ねた今までのやり方とは、極端に違うものです。名前の通り、それは、時には一枚の絵でしかありません。演奏家が今までのように楽譜の音符を再現するのではなく、楽譜---絵のような---を眺めて、彼なりの新しい創造を行うことに、このスコアの目的はあります。当然、演奏は、その時々によって異なってしまうでしょう。これは「偶然性」といわれる現代の音楽の一つの行き方です。

 他にも、作曲家は、時と場合に応じて、従来の記譜法を様々に変化させ、あるいは放棄して、自分の意図を最も明確に伝え得る方法を探しています。今は、全員が暗中模索しているのでしょう。

 


月刊おんきょう 1968年6月号掲載
クラシック談義第4回 楽譜のはなし (連載Ⅰ~Ⅴ) 野田暉行