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月刊おんきょう 1968年4月号掲載

クラシック談義第2回 指揮のはなし(連載Ⅰ~Ⅲ)

 

Ⅰ. 指揮者って何だろう?
 最後の和音がホール一杯に力強く鳴り渡って、オーケストラの演奏は終わりました。満場の聴衆から湧き起こる拍手。大成功です。その拍手にこたえて、指揮者はゆっくりと一礼し楽屋に消える。鳴り止まぬ拍手。アンコール!彼は、何度も呼び戻される。聴衆は、まるで彼の指揮に酔ってしまったようです---しかし、彼は、彼自身の手によって一音符も演奏した訳ではない。彼のしたことといえば、手を振り回すことと汗をかくことぐらい・・・誰の考えにも、次のような素朴な疑問を禁じることはできないでしょう。「指揮者は、一体、何をしているのだろう?」「彼は、どうしても必要なのだろうか?」

 かつて、革命後のソ連で、興味ある実験が行われたことがありました。指揮者は一種の独裁者であるという考えから、それを必要としないオーケストラを作ろうとしたのです。でも結果は思わしくありませんでした。指揮者のいないオーケストラには限界があることがわかったのでした。

 指揮者が手で拍子をとっていることは皆さんもご存じだと思います。そして、それが、指揮の根本的な目的であることは確かです。オーケストラが小規模であった時代---だいたいモーツァルトの頃まで---では、しばしば主席コンサート奏者マスターが自らヴァイオリンを奏でつつ、拍子を指示していました。ベートーヴェン以後、オーケストラが大きくなるにつれて、その方法はだんだんと不都合になり、指揮者がオーケストラから独立することになったのです。ところが、ベートーヴェン時代には、メトロノームという文明の利器も発明されました。もし、指揮者の仕事が単に拍子をとるだけのことなら、それに任せておけばよかった筈です。にもかかわらず、指揮者の仕事はますます重要性を帯びていったのでした。それは、主に、ウェーバー(彼は、初めて指揮棒を用いました)やメンデルスゾーン、ワーグナーの功績でしょう。一口にいって、彼等は、指揮者を一人の演奏家---オーケストラという楽器を演奏する---として確立したのです。それは、ハンス・フォン・ビューローにはじまる近代の数多くの職業指揮者の歴史へ受け継がれ完成されました。

           
Ⅱ. さまざまな能力
 一人一人意志を持った音楽家の集合であるオーケストラという巨大な楽器を演奏するのは容易なことではありません。指揮者は、その様々な意志を、自分の意志で一つにまとめ、正確な技術と知識で、瞬間のうちに、自分の音楽をその上に反映させなければなりません。そのためには、彼自身、前もって作品について精通し、その音楽のイメージを明確に把握しておく必要があります。何かを指揮しようとする時、指揮者に課せられた最初の仕事は、作曲家の書いた楽譜を読むことなのです。彼は、一頁につき何百と書かれた音符のすべてを認識し、作曲者の意図を掴まなくてはなりません。そのためには、種々の楽器の演奏や効果についてもくわしく知る必要があるでしょう。あるいは、その作曲家の時代の様式や習慣についても考えなくてはならないでしょう。楽譜は、常に完璧であるとは限らない。たとえば、バッハの楽譜には、本来、テンポも強弱も全く書かれていませんし、過去の作曲家の多くは、アレグロ(早く)といったような簡単なイタリア語でテンポを指定しているにすぎません。指揮者は、曲想やそれらの指定から、自分のテンポを前もって決定し、それに相応しい音楽の在り方をも決定しなくてはなりません。これら一切が完了して、はじめて、オーケストラを前にすることができるのです。そこでは、もっとも能率的な練習法が重要な課題となります。すべての楽員の注意力を自分からそらせることなく、限られた時間に自分の意志をすっかり伝える、これは極めて至難の技です。彼は、対話し激励し叱咤して、オーケストラを自分の求める方向へもって行かねばなりません。そこは豊かな人間交流の場となるでしょう。大指揮者トスカニーニは、練習を始めると途端に「ノーノー」(そうじゃない)といって中断するのが常だった。そのため、彼は楽員から「トスカノーノ」と呼ばれていました。

 

 

Ⅲ. 大指揮者は魔力をもつ!
音楽は、音が出た瞬間に次の部分に移ってしまう---音が出てしまってからは、もうどうしようもありません。演奏会を確かなものとするために、練習がいかに大切であるかは、言うを待たないことでしょう。練習が終わった時、指揮者の役目の大半は終わっている、といってよいかもしれません。彼は、演奏会のステージで、楽員があがってしまわないように、しかし、適度の緊張を保ちながら、練習の際の様々な注意を思いださせればよいのです。もちろん、常に、彼は楽員達より数小節先んじていなくてはならない。音が出たらおしまいなのです。

 一見、楽しく簡単そうな指揮という行為が、実は、多様で複雑な内容を(音楽から人間関係までの)帯びています。しかし、偉大な指揮者達の仕事は更にそれ以上のものなのです。それは、もう説明を超えた領域にあるといってもよい。一種の魔力---楽員も聴き手も、そうせずにはおれない力というべきでしょう。指揮台に立つだけで、その周囲には緊張力と霊気がみなぎるのです。今世紀最大の指揮者であるフルトヴェングラーの次の言葉には、何かその偉大さの秘密が語られているような気がします。

 「私の表現欲は余りに強かったので、私は技巧的な難問をある程度は跳び越えてしまった。私は、いわば、無勝手流の指揮者だった。大切なのは技巧ではなく理解、つまり自らの感受性です。」

 巨匠とオーケストラの気心は常に通じ合っています。そのせいか、偉大な指揮者には意外に練習嫌いな人が多いようです。練習の必要などないからでしょう。特に、クナッパーツブッシュは練習しないことで有名です。その彼が、ベートーヴェンの「運命」を指揮した時のこと、彼としては異例の練習が行われました。その終了後、一人のチェリストが彼に質問しました。「マエストロ!第一楽章の繰り返しはするのでしょうか?」(この繰り返しはしないことが多い)習慣的なことだったので、彼は、ただ一言無愛想に「しない」と答えただけでした。ところが、これが仇になってしまったのです。本番になって、その箇所まで演奏が進んだ時、多くの楽員が迷ってしまった。「はて、するんだっけ、しないんだっけ?」そして、演奏は両者入り乱れて、遂に大混乱。なんとか終わるには終わりましたが、もちろん、クナッパーツブッシュはカンカンです。やがて、楽員達が、おずおずと謝りに来ました。彼は、即座に、こういったそうです。

 「だから、練習などしない方がよかったんだ!」


月刊おんきょう 1968年4月号掲載
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