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月刊おんきょう 1968年7月号掲載

クラシック談義 第5回 20世紀 三つのイベント(連載Ⅰ~Ⅳ)

 

Ⅰ. 可能性を求めて
 「現代音楽」という言葉は様々なイメージを投げかけます。ああ、あの訳の分からない音、複雑怪奇な音楽、何とも言えない退屈!こういった否定的意見の一方では、絶大な賞賛グループが存在します。新しい音楽の出発、底知れぬ魅力と可能性!

 新しいものの誕生には、いつもある種のトラブルがつきまとうことは確かです。ベートーベンの「エロイカ」が初演された時、人々は「余りにも長すぎて退屈である」と評しました。ハイドン風の世界から一歩大きく前進したこの曲が、当時の古い耳に全く退屈なものとして響いたことはうなずけます。ブラームスは旋律が無いという非難を浴びました。あるいは、近年こんなにもよく聞かれるブルックナーの初演は、いつも惨憺たる有様でした。彼はむしろ黙殺されていたといってもいい程です。実際、このような出来事は、音楽史上、枚挙に暇がありません。

 歴史の変転と共に、音楽史も又、作曲家の個性を反映して次々に生まれ変わっています。

 19世紀後半から20世紀初めにかけて、西洋の音楽史はワグナー一色に塗り潰された感がありました。彼は、ロマン主義を究極にまでおし進め、音楽史に一つの偉大な山を築いたのでした。そして、彼に続く作曲家達はすべて、否応なしに、その強力な影響力の中に置かれていました。

 しかし、新しい時代の自由な才能と個性の開花のためには、誰かがその支配力を断ち切らねばならなかったのです。20世紀には、あちらこちらで、そのための様々な摩擦や対立が生じました。なかんずく今世紀初めに起こった、音楽史上のスキャンダルともいうべき三つの事件は、極めて重要なものと言えるでしょう。


                 
Ⅱ. 「ペレアスとメリザンド」の誕生
 その一つは、20世紀早々の1902年に起こりました。印象派音楽の創始者であるドビッシーの歌劇「ペレアスとメリザンド」の初演がそれです。

チルチル、ミチルの「青い鳥」で有名なメールリンクの台本によるこのオペラは、当のメーテルリンクが、歌手の配役が気に食わないという理由で上演を断ってくるなど、演奏会の前から色々な物議をかもしたのですが、はじめて聴衆を招いて行われた公開練習の騒ぎはそれどころではありませんでした。ワグナーの響きにすっかり慣れている人々には、この曲の清澄な天国的な音色が、まるで受け入れ難いものとして、聞こえたのです。曲の演奏が進むにつれて、聴衆の態度は、はっきりと二分されました。口笛をふき、叫び、足踏みをする否定派。それとは対照的に熱狂的な拍手を送る賛美派。新聞批評も、それに劣らず、すさまじい対立となりました。そのほとんどは酷評で埋められ、「音楽ならざる音楽」「色彩もニュアンスも無い音楽」といった全面的否定の批評も少なくありませんでした。一部の真実なる音楽家---例えば、ポール・デュカ等が、この曲のほんとうの偉大さを理解し得たにすぎなかったのです。さながら、パリは二分されてしまったようでした。もちろん、まもなく、これらの反対派達はすっかり姿を消してしまったのでしたが・・・・。
                                      


Ⅲ. カクマル派と保守反動?
 ところで、後の二つの事件は、共に1913年に起こりました。ドビッシーにより19世紀から解放された音楽が、徐々に自由さと表現の多様さを獲得しつつあった頃です。

 それはまず、3月31日、ウィーンで起こりました。当時ウィーンでは、20世紀の音楽の主流を背負って立つべき音楽家が活動を始めつつありました。シェーンベルクとその弟子ウェーベルン、ベルクの三人です。ちょうどシェーンベルクの大曲「グレの歌」が初演され、ようやく彼等の名が高まりつつあった頃です。この日に、この三人の作曲家は、自分達の作品を中心とした試演会を催したのでした。プログラムは、ウェーベルンの管弦楽曲、ツェムリンスキーの歌曲、シェーンベルクの「室内交響曲」、ベルクの歌曲、そして最後にマーラーの「亡き子を偲ぶ歌」という、当時としては超現代的なものです。

 ウィーンは保守的な国として有名です。今でも、街には中世風の建築が立ち並び、行き交う人々の情緒は、ウィーンがどこか異なった世界—時間が逆行した—に在るかのような印象を与えるといいます。そのウィーンで、このような前衛的な音学会が開かれたのですからたまりません。演奏会が始まると同時に、場内は口笛と嘲笑、そしてそれを止めようとする拍手が入り乱れ、大混乱となってしまいました。ベルクの歌曲が終わる頃には、遂にそれが最高潮に達し、場内では、とっ組み合いが始まりました。やがて、警官が駆けつけ、口笛を鳴らしている男をつまみ出し、楽員達はステージから降りて聴衆と口論を始め、中へ割って入ったアカデミー総裁も、結局は興奮のあまり、男を倒してしまうという騒ぎです。日頃からおとなしい作曲家ウェーベルンも、大声で「ガラクタを追い出せ。持ち物をぶっつけちまえ!」などと叫んだそうです。そして、一部の聴取は、宮廷に向かってデモをしたとか・・・ウィーン始まって以来の大騒動を演じたのでした。

 


Ⅳ. 奇異から真実も
 さて、もう一つの事件は、5月29日、パリのシャンゼリゼー劇場で起こりました。ストラビンスキーの傑作「春の祭典」によるバレーが初演されたのでした。この曲は、今ではむしろ独立した管弦楽曲としてよく演奏されますが、もともとは、有名なディアギレフの率いるロシアバレー団のために書かれたのでした。現在もまだ新鮮なリズムと強烈な原始的色彩に満ちたこの曲は、音楽を完全にワグナーから解放し、新しい時代を予言したのでした。それを初めて聞くパリの聴衆が如何に驚いたか想像に難しくありません。前奏が始まった途端、口笛や奇声、嘲笑が客席のあちらこちらから起こり、ストラビンスキーは、たまりかねて楽屋裏へ逃げ込んでしまいました。サン=サーンスは、冒頭のファゴットを聞いた途端、腹を立てて帰ってしまったそうです。客席の騒ぎで、踊り子達はとうとう肝心の音楽が聞こえなくなり、舞台の袖から大声で叫ぶ振付師の拍手に合わせて踊らねばなりませんでした。やがてここでも、つかみ合いが始まり、警官が駆けつけたのでした。ストラビンスキー自身は、この出来事を、「その時、私達は皆、むかむか....し、そして、幸福だった」と回想しています。

 半世紀が流れ、現在、我々は全く多様な時代を迎えています。今までは、もう「春の祭典」を奇異に感じたりする人はいないでしょう。しかし、一方、芸術は常に新しく創造されつつあります。今日の「耳慣れぬ音」が明日の「真実」でないと誰が言い得るでしょうか。

 
月刊おんきょう 1968年7月号掲載
クラシック談義 第5回 20世紀 三つのイベント(連載Ⅰ~Ⅳ) 野田暉行