第1章 

戦争の記憶 その2

   野田暉行 

   父母と姉、私の家族4人が久し振りに揃い(本来は5人のはずだった)、一家は落ち着いた生活となった。が世の中は落ち着くどころではなかった。戦争の影はひたひたと国民を覆い尽くそうとしていた。子供はそのことを知る由もない。それでも8歳上の姉は国民学校初等科に通い始め、学校の変化を感じていたようだ。

 

 私は、昼間一人部屋にいて、忙しく働く父母をみて、絵を描き、切り紙をする毎日だった。もちろん小学校の勉強も教えられ、いつの間にか学力も身についた。そういった年月が3年近く続いただろうか。太平洋戦争に突入した時、私にはその大事をまったく知らされなかった。ただ周囲が日々何かざわめいており、堅い雰囲気になっていくのを感じないではおれなかった。

 

 多分2歳から3歳になる頃だと思うが、私を負ぶって母が店をやっていた時のこと。醤油樽の大きいのが積まれていた風景を今も思い出すが、近くの部屋でラジオから音楽が流れていた。アナウンスがあって曲が代わり、その途端、私は曲に気持ちが悪くなって背中でいたたまれなくなった。トロンボーンの露骨なグリッサンドに身の置き所がなくなってしまったのである。ずっとずっと後年になって、その曲がわかった。「ガイーヌ」だった。これがはじめての音楽への強い反応だった。もちろん今はなんということのない曲で、高校時代にはよくピアノで弾いたりもしたのだが。日本はロシアとは友好関係にあり、敵性の曲ではないということから、初演直後の放送があったものと思われる。

 

 絵は、自分で言うのもおかしいが、今思い出すとかなりうまく描いていた。ザラザラの粗末な紙と、色も質も悪いクレヨンしかなかったが、それは私の宝だった。切り紙はもっと上手で、皆が感心した。鋏で色紙をあっという間に切って得意になって見せていた。毎日いくつも切って紙のない時代にもったいないことであったが、記念に1枚くらい取っておけばよかったものを、すべて紙屑になった。絵も切り紙も題材が次第に限られて行き、いつの間にかもっぱら汽車と電車になった。切り紙は、客車の窓を一つ一つ、一筆書きのようにくり抜いて、その技術はなかなかのものだった。

 

 同時に、汽車や電車を見るのが何よりも好きで、いつまでも飽かずに通り過ぎるのを待った。ご機嫌だった。家から100メートル程東に参宮線と近鉄が走っており、国民学校の運動場の向こうに踏切があった。今もしばしば夢に見る不思議な場所である。よく父にねだっては見に連れて行ってもらった。

 蒸気機関車の構造を詳しく絵にしようとしたが、いつの間にか必要最小限の書き込みと、それを最もよく見せると思えるバランスの構図が自然に定着した。

戦争の記憶 その2-1 野田暉行 Teruyuki Noda Memory of War
©Teruyuki Noda

電車の新しいメカニズムにも夢中になり、勝手なネーミングをして、一人喜びに浸っていた。パンタグラフは「マンゾク」、踏切は「ガンガンメ」といった調子で、ずっと後になって父が駅員に正式名を聞いてくれるまでそう信じて譲らなかった。

 

 外に出て遊ぶことはほとんどなく、時折お隣の男の子と何かをしたがそれが何だったか記憶にない。ただ家の中でじっとしていたわけではない。先ずは親愛なる玩具への尽きぬ興味。絵本。それらは大いに想像をかき立て物語を与えてくれた。父が持ち帰った傷病兵の病院の絵本は強烈で今も忘れない。

 

 1歳を越えて記念写真を撮りに姉と写真室へ行った時のこと、撮れるまで1時間以上かかったのだが、それは玩具に夢中になって動き回り。写真のことなど何も気にしていなかったせいである。ほんの一瞬カメラの方を向いた瞬間をカメラマンは捉えた。皆が困り果てていたという話を姉から聞いたが、その写真館に出かけたことは私自身もよく覚えている。

 家には兄が着ていた水兵服が残してあった。私はよくそれを着せられた。せめてもの兄の面影を偲ぼうとしたのだろうか。進軍ラッパをはじめとして、軍隊の様々な記念物がたくさん残されており、私はそれを大切にしていた。しかし、いつの間にかすっかり無くなってしまっ た。どうしたのだろう?

戦争の記憶 その2-2 野田暉行 Teruyuki Noda Memory of War
©Teruyuki Noda

3歳の秋頃だと思うが、母と、知り合いの神戸(かんべ)さん母子とで伊勢神宮へ行った。なんだか少し熱くて疲れ、早く帰りたいとそればかり思っていた。記念の写真もそのような顔つきだ。その頃伊勢市には市電が走っており、木造の停留所でそれを待つのだが、その時間も長く感じられた。神戸さんの坊や(といってもかなり年上)も考えは同じだった。何度も線路の方へ出てはまだ来ないかと見ている。やっと電車の姿が見え、彼は喜んで線路の方へ。その時私は「危ないよ」と彼に注意したのだった。これも何故か鮮明な記憶である。

 伊勢神宮は津からそう遠くはない。以後何度も出かけることになるのだが、私はだんだん変わりゆく佇まいに、残念な気持ちが先立ってしまい、今は3歳の時のような特別な感じにならない。伊勢湾台風で多くの巨木が倒れ、五十鈴川の様子ももう以前のようではないが、何より第一、人があふれ、あれほど日本を敵視した外人達が気軽に歩いているのを見ると不思議な感じがするばかりである。だから、この3歳の時の経験は誠に貴重なものであり、疲れたなどと思い出すべきではないのかもしれない。母も神戸さんも一家の安寧と戦争からの無事避難を心から祈ったに違いないからである。 

 周りにあるものすべてに抱く興味はますます高じ、ついにはいろいろと分解を始めるようになった。やはり3、4歳の時だったと思うが、ついに目覚まし時計をばらばらにしてしまった。絶対元に戻せると信じていたのだが、部品の数に勝てなかった。不思議なことに誰からも怒られずほっとしたが、もう使って役立つご時世ではないと皆が感じていたのだろう。後のことになるが中学時代、腕時計に挑戦した。やはり途中で手が追いつかなくなり、時計屋のお世話になった。ドライバー一つというのも無理な話だったが、未だに時計の構造には大きな壁がある。ハンドメイドの時計の魅力と価値はそれに尽きる。

 

  はっきりした日時の記憶はもちろんないのだが、昭和18年(1943年)これも3、4歳頃だったか、少し薄雲のある晴れた日。耳慣れぬかすかな飛行音が超高空から聞こえた。「あれ?」と言う父母の言葉に私も耳をそばだてた。重くうなるような不気味な持続音。父によれば新型爆撃機B29の初の津市上空の通過だった。この後攻撃の立役者のようになるB29。日本の零戦機とともに太平洋戦争の代名詞と言ってもよい攻撃機の登場である。

 

 プロペラ機としては異例の高度を飛んでおり、目で捉えることはなかなか難しく、幻のようにも感じられたが、音はしばらく尾を引いて続きやがて去った。偵察飛行だったに違いない。高射砲は決して届かない高さ。おそらく今後の攻撃のため街の資料写真を撮っていったのであろう。レーダーといい日本にはまだない技術だった。そのような詳しいことを一般人は知るよしもない。ただ、高射砲や機銃掃射などの戦争用語はもう私もわかるようになっていた。

 

 このきっかけがすべての始まりだった。やがて、中型、小型の各種爆撃機が低空を1機2機と飛ぶようになり、その数が次第に増して、飛来の回数も不定期に増大していったのである。そのような時まずB29のうなりが遠くから近づいてくるのが常だった。それは子供にも聞き分けられた。忘れられない前奏曲のようだ。

 

 戦争とは別の記憶だが、4歳の時から戦後にかけて、大きな地震が3回あった。実はその前にさらにもう1回起きていたらしいのだが、それは鳥取の方が震源地で津ではあまり感じられなかったので、私の記憶は3回である。近年の大震災に比べれば少し下のランクの地震だったとはいえこの地では100年に1回あるかないかの大地震であったことに間違いはない。子供にとって生まれて初めてのこの洗礼は驚きだった。最初の2回はほとんど立て続けに起きた。記録では約1ヶ月の間隔で起きたようだ。震源地がまったく別なので余震ではない。

 

 1回目の印象があまりにも強烈で、2回目はもう戦争の危機の方が身近になりつつあったこともあって、1回目程インパクトが残っていない。冬のさなか、1回目は午後に、2回目は真夜中にやってきた。

 

 その午後、私と母は2階に居て、丁度階段を降りるところだった。突然激しい揺れが突き上げてきて階段をやっとのことで降りた。父は外出中だったため、母が一人何とかしようとしたが、もう揺れで立っているのも精一杯で動けなかった。母はタンスの前に立って私を前にしっかり抱きしめ身体でタンスを押さえつけて守っていた。不思議に怖いという感じは私になかったが、店の商品が激しくズレ動いているのをじっと見ていた。醤油樽の栓が飛び、醤油が押しては寄せる波のようにこぼれ落ちた。店の棚に置いてあった青と白の陶器の平たい器の盆栽が、前へ前へと生き物のように動いてついには落ちて壊れてしまった。周りの様子は、すべてのものが踊るように上下して、同期しないフィルム映画の画像の如く二重映像になったような感じだった。揺れはかなり長く続いたように思う。幸い家は無事で、表に出ると近所の人が大勢集まって、口々に恐ろしさを語り合っていた。向かって右隣は豆腐屋だったが、家が一部崩れており、主のおばあさんが道路にへたり込んで拝んでいた。父が飛んで帰って無事を確かめ合い、ほっとしたが、姉は、多分勤労奉仕で出かけたのだと思うが、行っていた所の近くの女学校の2階が落ちたと報告していた。

 

 2回目についてはこれほどはっきりした記憶がない。とにかく真夜中にたたき起こされたのと、じっと布団の上で揺れが収まるのを待っていたのではなかっただろうか。家のきしむ感じとガラス戸の震える音、外の暗闇が恐ろしさとして残っている。

 

 いずれの地震も公的な情報は何も知らされず様子がまったくわからなかった。戦後何年も経って戦時下に東海地方で大地震があり死者もかなり出たこと、人心が乱れるのをおそれて報道は一切されなかったことを知った。

 

 世の中の状況はどんどん悪くなった。食糧難、町内会の戦時訓練や消火訓練、相次ぐ灯火管制、鳴り響く空襲警報。夜の空に交錯する探照灯の不気味さ。毎日がそのようなことで過ぎていく。でも、皆、誠実に義務に従っていて、私の記憶に残っているトラブルなどはない。甲高い警報サイレンの音は何とも不快な緊迫感を人々に与えた。鳴る度に身を潜めて、解除を待つのだが、最初は警報のみで何事も起きないことが続いた。このサイレン音は徐々に悪夢のように身に染みつきやがて慣れてしまったが、実はアレルギー症状のように潜在し、戦後も反射神経を逆撫でした。工場などで戦後しばらく続けられた休憩合図など、違和感に襲われ忌まわしい感じが即座に復帰するのであった。評判が悪く少しずつ廃止されたのだが、この頃またぞろ緊急避難警報など聞かされ始めたのは、「時代は繰り返す」の警告か。

 

 バレーズの作品「イオニザシオン」にサイレンが出てくるが、大学入学の年、実演を聞いて思ったのは、そのようなことをしないとインパクトが作り出せないのか、という虚しさだった。

 

 我が家ではかなり遅かったのだが、あちこちで防空壕作りが始まり、人はそこを安全と信じて逃げ込んだ。ほとんど爆撃から身を守ることは出来ないのだが、他に手段もない。サツマイモの粉を揚げた菓子風のものを防空壕で食べたのが懐かしい。何もない当時としては結構美味しかった。中にはまで食べたという人もいるが、私には思い出せない。今や有名になった「すいとん」は確かに定番メニューとして欠かせないものだった。

 

 津には軍需部品の下請け工場があった、都合の悪いことに私の家の東側、そう、先程書いた行きつけの踏切の向こうにかなり大きい工場があり密かに何かを作っているのを知っていた。筋向かいの少し離れた角にも得体の知れない小規模のものがあり、それらが狙われないはずがなかった。

 

 初期の頃は地上から対空砲火で応撃していたが、一度、打ち落とされた米小型戦闘機が煙を噴いて、家の少し前の低空を北西方向に落ちていくのを見た。赤い米兵の顔が小さなコックピットから一瞬見えて、ちらりとこちらを見遣ったような気がした。機はそう遠くない観音寺という所に不時着し、米兵は引きずり出されて打ち殺されたのではないかという噂だったが、真相は誰もわからなかった。このとんでもない出来事に誰もさほど驚かず、平然と見ていたのは、既に戦場の中に我々が取り込まれていたということだったのだろう。事情を知らない子供の目には何か楽しくさえもあったのである。

 

 戦闘機の旋回を度々目撃し、私にも機種が認識できるようになった。空襲警報の回数は増え、やがて夜にも襲いかかるように鳴り響いた。灯火管制下、防空壕を電灯で照らすわけにはいかず、我々は町内ごとにチームを組んで川の上流の暗い土手に避難しなくてはならなかった。全員連れだって出かけたが、楽しくもありなんとなくうんざりでもありだった。 私を乳母車に乗せ、一家で数キロの暗い道を、何度往復しただろうか。

 

 ただ、川の土手で、人々は意外にも明るく和気藹々と語り合い、真っ暗な街の方を見ながら、警報解除を待つのだった。さすがにその土手までは米機もやって来ず、皆安心していたということもあった。もう終戦の年になっていた。

 

 そういったある夜、夏で蒸し熱い空気だったが、そのせいばかりでなく、いつになく騒然とした雰囲気が漂って「今夜は何かあるな」という予感が皆に広がった。特に北の方向が何かしらざわめいて、遠くで砲火音が響いているようで落ち着かなかった。その時である。一瞬その方向に大きな火焔が無音の中扇形に炸裂し、かなりしばらくして重く遠い爆発音が押し寄せてきた。火焔はちょうど旭日旗の模様のような筋を描いて放射状に広がり、大仕掛けの花火のようでもあった。「日の出!」と誰かが叫んだ。「四日市がやられたな」と嘆息する人。ほとんどのものは「あー」という、声にならない驚きの叫びと共に押し黙った。火はとても近く見え、四日市だということが私には信じられなかった。

 記録によれば3月の東京大空襲以来、本格的な地方爆撃が開始されたようだ。1945年6月18日、私の5

歳の誕生日の3日後に、四日市市は5分で焼野原と化した。その瞬間を30キロほど南の津で私は見たのである。