第2章 

小学校の思い出 その1 

  野田暉行        

 少し世の中が落ち着き、ほんとうの意味での戦後が始まった。

 1947年、私は、三重大学附属小学校に入学し、新しい戦後教育を受けることになり、姉も新しい中学で、戦前のあの軍事教練や、教育勅語、やたらと神武以降の天皇名を暗記させられるといったような教育から一変、民主という名の自由のもと、思ってもみなかった学生生活を楽しむことになった。まだ先生達にはとまどいもあったと思うが、とにもかくにも日本は再出発したのである。

 私は戦前の教育は知らない。だから、すべてこんなものだと何の不思議もなく自然に受け止めるのみであり、そのまま新しい時代へと成長していった。

 さて、ここに書き進めるのはほんとうにプライベートな他愛ないことでもあり、私自身の覚え書きのようなものである。興味を持たれるかどうかは度外視させていただき、書き進めることにする。

 

 附属小学校では、入学にあたり試験が行われた。母に伴われて神妙に出かけ、いくつかの部屋でいろいろな試験を受けた。ジグソーパズルのようなものもあったと思う。しかし、何といっても鮮明に覚えているのは、次の試験である。

 部屋の壁、手の届かない高さに帽子が掛けてある。部屋には踏み台や竹の竿、机には野球のボールなどいくつかのものが用意されていて、その中から「何か一つを使ってあの帽子を取りなさい」というのである。私は半ば反射的にボールを何回か投げつけた。帽子は落ちなかった。何となく泣きそうな感じで部屋を出ると母がいて、様子を聞き、「何で棒で取らなかったん?」と言われ、すっかりしょげかえってしまった。ところが、落選を覚悟していた数日後、見に行くと合格していたのである。

 ずっと後のことになるが、母がある先生から教えてもらったところによると、この試験の目的は積極性を問うもので、必ずしも棒や踏み台で容易に取れたからいいというわけではないということであった。そうなの・・・?

 私は未だにボールを選んだ理由がわからないのだけど。

 

 2、3日で入学式だという時に一寸した事件が起きた。小刀で頬を傷つけてしまったのである。

 父はとても器用な人で、いろいろのものをせっせと手作りしては皆を楽しませてくれた。竹とんぼなどはもうあっという間に、いろいろな玩具や戦後で物資不足の折から、机、小机を兼ねた踏み台等、時代が落ち着いてくると、「ササラ」と呼んでいた10本の細長く平らな竹の棒を手の平で返して点数を競う独特の遊び、ついには竹製の麻雀牌まで作った。

 中でも凧作りは名人級で、定番の角凧から奴凧、蝉凧等々各種をたくさん作ったが、圧巻は畳一畳以上もある大角凧だった。竹を割ってヒゴを作り、骨組みを作り、障子紙を貼って、歌舞伎絵や日の丸、孫悟空など凧によっていろいろの絵を描く、更に「うなり」という籐の弓を貼ったような装置を付けて、近くの運動場で揚げるのである。凧の強い引きに耐える太い糸を2、30メートルも収納する糸巻きも尋常のものではなく手作りである。

 走って凧を揚げるのはよく見かける光景だが、父はそうはしない。その大凧をかなり離れたところで私に持たせ、合図でそれを離すと、自らは動くことなく一気に糸を引いて揚げるのである。さほどの風は必要とせず、あっという間に凧は上空の風に乗って上昇して行く。糸を伝って、うなりの共振が耳に届き、歌舞伎絵がほとんど揺れることなく空高くに舞う。糸巻きはとても私一人では持っておれない。あっという間に引きずられ持っていかれてしまう。とても怖い感じだ。

 揚げるにあたっては微調整が必要で、凧には尻尾が付いているのだが、最初数メートルのテスト飛行で、その長さのバランスを計り、回転を止め左右の安定性を得るのである。

 面白いことに上がってしまえば、もうあまりフォローはいらない。眺めて凧が生きているのを楽しむばかりである。

 どのような土地関係だったのか覚えていないのだが、父は運動場から、揚げたままの凧を数軒の家の裏を通って我が家の裏まで引っ張ってきて木に結びつけ、長時間家から眺めたことがあった。ただただ普通の、日常的なこととして感じていたに過ぎないが、今ではもう不可能な貴重な体験である。

 父が最後に作った凧は最大級のものではないが、畳一畳くらいのその「作品」は、今も天井裏に保存してある。ただ揚げ手がいない。先ほどの遊びのササラも数本欠けてはいるが取ってある。そのほかの殆どのものは失われてしまった。

 

 ところで、その日、父は、「サルスベリ」と我々は呼んでいたが、バネを弾くと小さな猿が棒を駆け上るという玩具を作っていた。竹と木を削って部品を作るのだが、その調整のため、木を顔の高さにまで持ってきて、見ながら水平になるまで削る。父は小刀を自分の顔の方に滑らせて削っている。私は何かを手伝いたいと思い、一つの部品を同じように削ろうとした。23回やった途端、小刀が滑って顔を傷つけてしまった。力加減がわからなかったのである。入学式は、大きな絆創膏をして出かけることになり、先生方に「野田君どうしたん?」と言われて母は説明に大わらわだった。幸い傷は早く治り、学校が始まる頃には無事元に戻った。しかし私は、出発の時に何とばかなことをしたのだろう、とすっきりしない気分だった。

 

  戦前の国民学校に代わって、市内の各地区に、新しく小中学校が作られた。同時に三重大学には付属小中学校が創設されたわけだが、その経緯は少し複雑で私にはよくわからない。とにかく入学した時には男女共学の小学校になっており、私は最も初期の生徒ではないかと思う。まだ独立した小学校校舎はなく、授業は、戦火を逃れた石造りの健在な大学校舎の一部を借りて行われた。

(小学校入学時)
(小学校入学時)

小学生は大学の立派な正面玄関ではなく、横の出入り口を利用することになっていた。部屋は広くピカピカの石の床で、なんだか嬉しい気分であった。

 

 大学校舎を出ると、目の前には藤堂高虎の城跡があり(文字通り跡のみで城はない)、そこへの道は、蓮の花咲く水をたたえた堀の脇を行く桜並木である。毎年、それらの花とサクランボを楽しんだ。

 

 運動場の南面はカラタチの木が厚く続く生垣になっている。端の一角には、戦後特有の土と瓦礫のかなり広い小高い山があり、そこはチャンバラをするにはもってこいだった。

カラタチの花は、歌にあるように何とも言えない情緒をたたえている。嬉しいのは、秋につける実である。いい香りで、大きいのはピンポン球くらいものが成る。一度齧ってみたが酸っぱくてそれは駄目だった。棘に守られた葉には、靑緑と黒の縞模様の大きな幼虫がいて、それは蛹になり黄アゲハなどのアゲハ蝶となって飛び立って行く。

 

 私はこの木が大好きだ。小学校で先ず思い出すのはカラタチの棘とその美しい連なりである。この頃あまり見かけなくなってしまったが。

 (城趾への桜並木)

大学は、後年、都市計画が進展するとともに、移転し、建物は取り壊されて今は新しい市役所が建っている。周辺の環境もすっかり変わり、現在、もう昔の面影は全くない。石造りの校舎が懐かしい。

 

  学校は家から東へ徒歩10分程。よく汽車や電車を見に来ていた踏切を渡って、少し曲がり角はあるがほぼ直進すると、左に滑り台のある小さな公園があり、右手に教会が現れる。                                    

(城趾への桜並木)

  そのほんの少し先にカラタチの生垣が続いて、その先を曲がれば大学である。この道を何度も夢に見る。楽しく、何かミステリアスな感じもあり、とてもなつかしい。その教会では、クリスマスの日、1年生全員がプレゼントをもらい、幸せな気持ちであった。

 登校は適度な運動で快適なのだが、実は朝出かけるまでがたいへんなのである。そう簡単に「行ってきます」と飛び出すわけにはいかない。毎朝、母のチェックがあるのである。先ず洋服のチェック。

 その頃、洗濯は、しゃがみ腰で、タライと洗濯板と大きな石鹸を使って行っていた。上質の生地は、モノゲンという当時としては高級な石鹸を使った。我が家の肌着やシャツはいつも真っ白で、中学生頃にはよく「真っ白ちゃん」と言われたくらいであったが、母は実にきちんと折りたたみ、アイロンがけもピチッと決まって、今考えると見事なものであった。重労働であっただろうに。

 だからチェックも厳しいのである。少しでもだらしない所があってはいけない。さらに、それだけでは終らない。熱い蒸しタオルで顔を拭き、同じように頭も蒸しタオルで揉んだ上、髪の毛を梳かす。次は靴の選択。綺麗に磨いてある。どういう訳か私は革靴を履いていた。そしてランドセルと持ち物の点検。最後に帽子の向きとかぶり方をしっかり押さえて完了。毎年6月1日には帽子に白いカバーが掛けられ、夏を迎える。

 これらが小学校の間、途切れることなく毎日続いた。同時に父が、10本ほどの鉛筆を、専用小刀で毎朝綺麗に、ほんとうに綺麗に(よく広告に出てくる形のように)削って筆箱に入れておいてくれる。それをランドセルに入れて出かけるのである。

 父の鉛筆削りは中学頃まで変わらず続き、多分高校生になって鉛筆削り器を買って終わったのではないかと思う。そのため、私はなかなか鉛筆削りがうまくならなかった。今でも父の域はほど遠い。もう電動削り器一辺倒である。

 ある朝のことである。いつもと違う靴が出てきて「今日はこれを履いて行きなさい」と言う。見れば前に蝶飾りのようなものが付いているではないか。後で一寸した結び目だとわかったのだが、私には見た途端、どうしても女の子の靴に見え、父母はそんなことはないと主張し、私は絶対履かないと言って泣き出し、大騒ぎになってしまった。お洒落のつもりだったと思うが、結局、飾りを切り落とし、しぶしぶ履いて出かけた。もう始業時間が迫っており、父が自転車で送ることになった。もし飾り付きで行ったら冷やかされたに違いなかった。そのようなことは耐えられないのである。 



第2章

小学校の思い出 その2

野田暉行

 1学年は30数人のクラスがA、B2つあり、メンバーは殆ど入れ替わらずAB交互に6年まで持ち上がる。私は1Aクラスで、男性の紀田先生が担任だった。優しくしっかりした先生は、私の特性をすぐに見抜き尊重してくれた。一つは汽車の絵、一つは外へ出たがらないことだった。

  今後の話のこともあるので、先ず宣言しておくが、母は教育ママでは決してない。父ももちろん。でも子供のやることに常に熱心であったことは確かだ。私が外に出たがらず、友達ともあまり遊ばないことに関して、母は気にしており、早速先生に相談に行ったのだろう。どのような答えだったのか知らないが、母のやったことは、突然野球の用具を買ってくることだった。何人分かのグラブ、ミット、そしてバットにボール。友達とこれで遊びなさい、と言うのである。母自ら、近所の子供達に声を掛けて始めたのだが、皆、新しい用具に大喜びだったが、どうも盛り上がらない。

  今でこそ野球に興味があり、時々見に行ったりもするし、内容的にも多少微妙なこともわかってきたが、何も出来ないことはその頃から全く変わらない。付き合ってくれた友達にもすぐにそれはわかり、時を措くことなく作戦は失敗に終わった。 

 

  一方、絵の方は、進駐軍用の英字新聞見開き全面に描いた汽車を、先生は大いに評価してくれて、教室正面に長い間飾ってもらった。

 

はじめて夏休みを体験し、七夕から終了式、そして海水浴に至る、これまでにない夏にワクワクしていたが、一方で、計算ドリル、漢字演習を毎日欠かすことなくやり、絵日記、工作などの宿題もたくさんあって、遊んでばかりはいられなかった。

 

 母はわがことのように熱心に付き合った。

貼ってあった絵ではないが、その頃のもの)  

簾(すだれ)を通してやってくるそよ風は気持ちよく暑さを感じなかった。当節は、締め切って冷房に浸りきりだが、決してあの頃のようなさわやかな感じでもない。これは進歩なのかどうか?

午前中、 集中的に勉強をこなし、午後は自由にいろいろなことをしたが、海へ行くのは原則として午前中だった。波が穏やかで日差しの具合もよい。庭の畑から夏みかんほどもある完熟トマトをもぎ取って、お昼に、海の家で食べたのは最高だった。

 畑には(と言うほど広いものではないのだが)実に多種多様なものが作られていて、八百屋に行く必要は全く感じないほどのものだった。サツマイモ、ジャガイモ、茄子、キュウリ、カボチャ、トウモロコシ、トマト、ウリ、何種類もの菜、インゲン、莢豌豆、落花生(これは毎年の土地改良が必要で連作は出来ない)等の豆類、ヘチマ(化粧水とタワシ用に)などまで。そして唐辛子。まだ忘れているものがありそうだ。スミの方にゴミ捨て場がありそこに捨てた柿の種が芽吹き、中学3年、市街整備で100メートルほど引っ越す頃、なんと実が成った等ということもあった。まさに柿8年。渋柿ではなかったが美味しいものでもなかった。

 唐辛子については一言書かねばならない。実はこれは伊勢唐辛子(後年伊勢ピーマンと呼ばれた)という特別種で、現在はもうないと言ってよい。いわば絶滅種である。全国的認知を得られなかったために、時代と共にすべて新しいピーマンに取って替わられた。伊勢唐辛子の味を知らず唐辛子を語る事なかれ。今の洋風ピーマン一辺倒の方々は哀れである。

 最も近い姿はシシトウだが、味も香りも感触も全く違う似て非なるもの。その美味しいさは言葉で表現できない。10本もあればご飯の2杯はいける。

 食べさせたいと思う、もう今はなき伊勢限定のものが他にもいくつかある。

 津市の海岸近くの店でしか作っていなかった蒲鉾。噛んだ時に堅くなく、何とも言えない快感が広がり自然な魚の味とほの甘さ、そして香り。蒲鉾はそういうものだと思っていたら、実はこれも何処にもなく、東京に来てがっかりしたことの一つ。

 餅を一臼搗き終わる時、少し臼に残してそこに醤油を入れて更に二度搗きをする。醤油が適度に煮えて餅と一体になる。その感触と美味しさと来たら。これは、今でもやれば出来るのだが何処でもやってない。私自身は残念ながら出来ない。伊勢には名物「赤福」があり、本店で味わうそれは絶品だが、これはもっと生の食欲そのものである。

 

 そして我が家で搗いて作るあられ。この頃伊勢ではいくつかの店が復活させて販売している。殆ど同じようだが、実はどれも少し違う。あられは熱い湯で溶けるほどにして食べるのが最高に美味しいが、その時少しでも芯が残っていると駄目である。大量生産で機械搗きをしたり、餅米の質を落とすと実現しない。木製の臼であること、大きい杵であることと、手返しという人的作業であることが必須条件であり、それによってのみもたらされるものである。

 

脱線を元に戻そう。

 

 前にも書いたように、津は遠浅の海で、満潮にならない時刻を見計らって出かけていたのかもしれなかった。

 海は7月いっぱいで終わりである。8月はもう誰も行かない。海の家もたたみ始める。土用波はなんだか寂しく冷たく海の表情も暗い。今では8 月でも多くの人が出かけるが、いつからそういう習慣になったのが不思議でならない。

 

 でも私は泳げない。野球といい、スポーツ苦手人間である。作曲家の中田喜直氏は、作曲家はスポーツが出来なきゃ、というのが持論で、私も言われたことがあるが、ほんとうにスポーツが得意な作曲家なんていたの?ベートーベンやブラームスが泳いだりサッカーをやる姿なんておかしくて見られたものじゃない。確かに、ホームランを打った時の気持ちはどんなものだろう、と思うだけでドキドキするのだが、一生体験できないことは多い。

 

 学校では音楽の授業だけ別の女性の先生が担当して、いわゆる昔で云う「唱歌」の時間であったが、ある日、「3種類の和音を弾くので、聴き取ってノートに書きなさい」と突然言って、簡単な聴音の試験のようなものがあった。試奏が少しあってのち、いろいろ順番を変えて弾き、聴き取る、いわゆる聴音だ。三和音のもちろん簡単なもの。でも、適当に並べている者もかなりいたりする。書き取ったのを見て回って「野田君、全部出来てる」とほめてもらったが、でも何故やるのかは全然分からなかった。何で急にこのようなことをする気になったのだろう?

 覚えているのは音楽室の右側に座っていて、窓からさわやかな光が揺れながら降り注いでいた懐かしい思いのみ。先生の名も思い出せない。

 大学卒業後間もない新任の先生の気負いがあったのかもしれない。その後は1度もなく、1年の終わりとともに、先生ともお別れになってしまった。

 

 1年生で、何より嬉しく思い出に残っているのは、父に「少年王者第一集」を買ってもらったことだ。山川惣治作・画のこの物語は、その後中学生になるまで続き、私、いや子供達を夢中にさせた。闊達で見事な描写の絵と簡潔な文章。展開の巧みさは魅惑的で、しばしば私達はその先の謎解きを語り合ったりしたものだった。今風に言えば、劇画と言ったところだろうか。

 

 少し後のことだが、筋向かいのやや奥まったところに住んでいるお兄さんが、毎朝私を迎えに来てくれるようになり、楽しい通学が始まった。仲良しの彼と、道すがら少年王者について語り合うのはかけがえのない時間だった。

 

 関係のない余談になるが、思い出すのは彼の家の隣、更に奥まった所に一軒の家があり、いつも不思議な佇まいをたたえていたことだ。夢のように蘇る。少し壊れかけた門の向こうに洋風めいた瀟洒な家があり、そこに至る道の庭には、いつも花が咲き乱れていた。溢れる花はあまり手入れはされておらず自然のまま放置されているようで、私にますます謎めいた感じを与えた。美しくほのかで、春などは日差しとのブレンドが香るようで、そのイメージが今も立ちのぼる。

 そこに芥子の花が咲いていたのである。柔らかく優しく決して強さを感じさせないこの花を、それ以来見たことがない。その頃は違法なものだとは誰も思わず、気にもしなかった。もちろんその住人もそうだろう。どのような人だったか会った記憶が無く、不思議さが残るのみである。母に聞くのも忘れてしまい、もう何も手がかりはない。

 

 戦後すぐの、薄暗い電灯の本屋に連れて行ってもらい、父が選んでくれた「少年王者」を手にした瞬間が忘れられない。1年生には若干難しい漢字があり、最初は父が語り聞かせてくれたが、何度も読み返したものだった。

 第一集から第四集は集英社から定期的に単行本として出され、その後、同社の新しい子供向け雑誌「おもしろブック」の連載となり、何年か掛けて第一話が終了した。

 ある事件から、ジャングルでゴリラに育てられた日本少年、真吾が、動物たちと共にいろいろな敵や悪と戦い成長し、すべての謎が解けて、素晴らしい大人として日本に帰国する物語である。ジャングルブックやターザンに恐竜や悪人達が絡む、秘境ものの集大成のような大作で、大団円を迎える。

 しばらくして、主人公が文明社会で再出発し、また秘境に戻る第二集が始まり、長い間連載された。育ての親の動物たちに再会し昔のような生活が始まるのだが、このあり得ないと思っていたことが、もう20年くらい前になるだろうか、実際に起ったのには驚いた。

 イギリス人夫妻がロンドンで育てたライオンを故郷のジャングルに帰し、後年、様子を見にその地を訪れた時のこと、そのライオンが新しい子供達を連れて草原の森から挨拶に現れ、夫妻に抱きついたのである。その映像を見た時、感動のあまり涙するのを押さえられなかった。現実に動物との交流は他にもいくつかあり、少年王者の世界は決してあり得ないことではなかったのである。

 

 主人公の「真吾」は、今でも何か心疼く存在だ。

 

 私は、それらをすべて、連載の切り取りも含めて今も保存しているが、ほんとうに残念なことに、第一集が、上京する前、気がついた時には消失していた。古紙回収に誰かが出してしまったらしい。今あるのは、後年、集英社の仕事をした折、復刻版をもらったものである。ただ、あの紙質のざらざらした、絵の色彩も紙になじまず質素な感じの原本は、何ともいえない雰囲気があり、忘れられない。

 芸大に勤めてからのこと、週刊文春の仕事をした折、「捜し物コーナー」のようなコラムがあり、そのことを載せてもらった。翌週、持っている人がいるという記事が出て、大急ぎでその方に電話したが、すでにマニアが持って行った後であった。残念!

 あの正真正銘、生まれたての「真吾少年」にもう一度会いたいなー・・・思いは募る。        

                                                                                                                                                                                         (:復刻版表紙 / :原点版第三集表紙)