第3章

中学校の思い出その1

野田暉行 

 

 「戦争の思い出」を書き終えた時点で、つい話は小学校時代のことになり、卒業まで来てしまった。時代的に辿る予定はなかったのだが、やはりその後に起きた変化にも言及しない訳にはいかないだろう。という次第で、中学から高校時代に起きた主要な事柄、更に大学時代の思い出にも触れて、このシリーズを完結することにしたい。

 

  自分で言うのも恥ずかしいが、小学校卒業時点で私は秀才であった。巷では知る人ぞ知るといった存在であったようだし、今考えれば私自身もそのように感じていたのだろう。

 私の、入学感謝答辞で入学式が終わり、中学校生活が始まった。授業参観日の最初に、担任の先生が母に言ったのは、日比谷-東大という当時最先端の道を歩ませなさい、ということであった。母は大いに喜び、私には思わぬ重圧がかかることになった。

  新しく授業に加わる科目の、英語強化のために、すぐに、家から近い所の特別の先生に習うことになった。暖かい素晴らしい先生だった。たちまち英語が好きになり、実に多くのことを教えていただいた。先生は海外のペンフレンド(ペンパル)を探して環境を整えて下さり、早速、交流が始まった。ペンパルはインドの同い年の女の子で、明らかに上流階級の、大人の感じのある利口で可愛い人だった。将来、外交官になりたいと言っていたがどうしただろうか。

 写真交換から始まり何度も手紙の往来があり、象牙のペンナイフをもらって日本人形を送るといったやり取り等もあって楽しかった。ある時、どういう訳か突然ワルツを作って送った。もちろん作曲という意識があったわけではなく何故そうしたのか未だにわからない。ステキな曲だと返事が来たが、曲と言えるものではもちろんなかった。

 

 急速に音楽が頭の中を占めつつあった。音楽の授業は、多分新任の、女性の先生で初々しく新鮮だった。初めての授業に、先生はピアノソロをやって全生徒を魅了し、授業はいつも先生生徒共に熱心だった。先生は藤堂高虎の末裔である。城の跡に藤堂家の家があって、そこに住んでおられたと思う。音大を卒業した直後で魅力的だった。ショパンの幻想即興曲を素晴らしく弾いて、私はすっかり魅了された。毎回授業の始めに、私はこの曲の演奏を懇願して弾いてもらった。「野田さん、他の曲もあるのよ」とある時先生は言って多分ノクターンを聴かせてくれた。それもいいが、やはり幻想が一番だった。

 夏休みに名曲を聴いて感想を書くという宿題が出た。私は始めてストラビンスキーの「火の鳥」などを聞いたりして、まだよくは分からなかったが、いろいろな曲に新しく出会うことになった。ほとんど、知らない曲ばかり聴いた。楽想の豊かな曲に出会うと、ほんとうに心動かされ自分も作ってみたいと思うのだった。その最初のひとつが、ペンパルのローシャン・ラトナーガーへの贈り物だった。その頃、黒い厚表紙の五線帳を持っていて大切にしていた。そこに、でたらめの曲(のようなもの)を書いては一人夢見始めていた時代であった。

 

  附属小学校から附属中学校への進学は持ち上がりのような形で移行したが、簡単な進学試験があって数名が脱落した。そしてかなりの数の外部募集を受け入れ、クラスは各学年3クラスに増えた。新しく出会う友達は新しい世界を感じさせ楽しく、直ぐに大勢の仲良しが出来た。

 

 さて、そんな中、夏休みを迎えるにあたって、何人かの希望者で飯盒炊爨(はんごうすいさん)のキャンプに出かけようという計画が持ち上がった。参加を決めた時、母の耳に別のグループが同じ計画をしているということが届いたのであった。附属小学校出身者のみのグループとは別に、新入生と合同のグループがあるというのである。さてどちらに参加するか、母には大問題だった。どちらにも義理立てをして遺恨のない様にすべきではないか、というのが母の考えだった。

 ところが、驚いたことに、蓋を開ければ行き先が同じだった。

 三重県の北方に御在所岳という山があり、途中までロープウエイで有名な湯の山温泉迄行けるのだが、それとは全く別のルートを通ってそこに行き着こうというのである。両グループとも、先ず登山で中腹まで行き、2日のキャンプ。そして頂上を越えて湯ノ山に行きロープウエイで帰るというものだった。1200メートル強の山ではあるが、なかなか侮れない。頂上を越えるには岩場の綱渡りのような所があり、間違えば谷底に一直線である。

それを迂回して登る道もあってそちらの方は危険は少ない。新グループはそちらを選んでいたが、旧小学校グループの方は岩場登山を計画していた。6年生時の担任だった両先生が同行するという。

 思いもかけぬ事に母は両グループとも参加しては、というのである。易しい方には自分も参加するという。私は内心うんざりしたが、母の言い分にも一理あると思い両方参加に従うことにした。

 テントを張っての飯盒炊爨は楽しく貴重な体験だった。小さい頃から山への憧れが強く中腹から下の景色を見るのはどんなに感動的だろうかと期待したが、林の中の川の畔で、それは果たせなかった。2回目に岩場を渡る時は、かなり危険を感じた先生が足を踏ん張り、一人一人手を取ってリレーで私達を渡らせ、無事湯ノ山に辿り着いた。2回参加者は私のみだったが何とかすべてをこなし、夏休みはこのことで終わってしまった。

 

 山はいつも私にイマジネーションを与えてくれる。度々夢の中で私は不思議な現象の山中にいる。長いスロープで下っている山腹に科学的研究のための建物があり、その中で静かに何かが行われている。一点から電波のような波長が感じられ、遠いソプラノの静かに伸びた響きが聞こえてくる。時は夜明け近くの静寂、微かに東方が赤く染まっている。

私はその感情を表現することが出来ない。

 

 さて、帰ってしばらくしてから不定期な腹痛が始まった。今になって考えればだが、明らかにこのキャンプ疲れの後遺症だったのではないだろうか。吐く事もあり治る気配が無い。

 ついにある朝、学校に行く事が出来ないほどになってきた。休みを取って近くの大きな病院で診察を受けた。母は、病気に先天的な勘が働く人で、これは尋常ではないと判定して連れて行ったのである。その病院の院長は小学校の時、私を車でドライブに連れて行ってくれたり、珍しいテレビを部屋で見せてもらったりして可愛がって下さった方である。診察はその方ではなく新しく病院に来た若い医師であった。母が「何か異常がある」と訴えたが食中毒でしょうということになって、注射を一本打ってもらって帰った。

 

 母は疑問を持っていた。翌日、大学病院で再診療をしてもらうことになった。長時間いろいろと調べたがやはり分からない。その時私は昨日打たれた注射のことを思い出し、ふと打たれた注射の名前を言った。ドイツ名を覚えていたのである。それを聞いた途端「ああ、それを打たれたのでは何も分からない」と医師は驚き、しばらくじっと考えた結果、「明日学校に行ってもいいでしょう」と言ったのであった。

 

 中学校は、これまでと違って遠くの農学部の畑と牧場の中に建てられており、海まで歩いて行ける所にあった。家からは15キロくらいの距離だろうか。電車で行けば2駅目。駅からは徒歩で国道23号線に出て、そこからは広い畑の中、水路に沿ってしばらく歩かなくてはならない。長い徒歩を入れると30分では着かない。そのため自転車で通うことになり、ピカピカの新車を買ってもらって通っていたのである。

 

 医師の許可が出て、翌日その自転車でいつも通り出かけ、授業を受け帰途に着いた。小学校3年の時写生した絵にある橋を渡って帰るのであるが、渡り終えて家の方向に右折した時のことである。突然例えようのないとんでもない激痛が腹部に走った。何か異変が起きた!動けない。じっと自転車に伏して引くのを待ったがますます強くなるばかり。何か回虫のようなものが腸を食い破ったのかと思った。とにかく家まで辿り着こう。ペダルを回転させるのは不可能で片足ずつゆっくり足を降ろしながら、必死で家の前の地面に到達した。降りることが出来ない。直ぐに家から父と母が飛び出して来て抱え上げてくれ、そのまま横になった。身体全体が異常な感じになり、見ているガラス戸が揺らぎ始め定まらない。たいへんな発熱。母が直ぐに電話をし、しばらくして救急車が到着。中から医師が跳ぶように降りて診断した。あの注射を打った病院のあの医師である。見た途端「一刻を争う」と叫ぶように言って直ぐに病院へ。病室が空いておらず看護婦室に寝かされて待った。父母ももちろん駆けつける。もう速く手術してほしいという気持ちが強くなる。ただ意識ははっきりしていた。

 いよいよ手術が始まった。院長自ら執刀である。「あの野田さんの坊ちゃんに何かあっては」とのことだったそうだ。母は「手術室の中で見ていたい」と申し出たらしい。院長を困惑させていたが「大丈夫ですか」と言われ「死に目に会えないのは耐えられない」と答えているのが聞こえる。そして父母共に私の横で見守ることになった。これは本当に例外的な特別扱いであり、父母はもちろん、院長にとっても相当な覚悟あってのことだったろう。

 私は麻酔が効きにくい体質のようで、大きくなってからも歯医者の麻酔等1回の注射では効かないことが多かった。麻酔技術はまだ今のように発達しておらず、この大手術が半身麻酔で行われた。痛い痛いと言い続けるうちにようやく薬が効いてメスが入った。その後静脈を止めるのが分かった。その一部始終をはっきり記憶している。母は私の手を手術が終わるまで握り続け、声を掛け続けていた。 虫垂が膿んで破裂し腹中にそれが飛び散ったことが、この事態の原因だった。しかも移動性の見つけにくい虫垂炎であった。そのため院長は「ない!ない!」と探さねばならなかったらしい。患部を手早く処理した後、腸を全部出して腔内をペニシリンで洗浄してから元に戻し傷を縫って終わった。長く感じて苦しみの連続だったが、20分くらいだったそうだ。しかし、その途端、院長はさっと私の身体を左に傾け、その右脇腹にメスを入れたのである。「あれー!何をするの」と父母は仰天したようだ。そこからゴム管をさっと中に入れてすべてが終わったのである。

 これらは後で母から聞いた話である。院長の手さばきは実に的確見事なもので、大胆緻密、本当に感心したと言っていた。当時抗生物質はまだペニシリンしか開発されておらず、これが最先端の治療だった。この時点で私は、「一生傷」の持ち主となったが、今までそれに関する問題は起きていない。すべての仕事や出来事がこの身体で現実のものとなり、今日まで到達した。こうして無事に生きてこられたことに感謝している。

 

   手術は無事終わったが、その後の闘病生活はたいへんだった。病室は暫く空かないまま看護婦室のベッド上で20日間の絶対安静に耐えなくてはならなかった。腹部には布団が当たらぬよう半弧形の枠が置かれており、毎日ゴム管から何とも言えぬ臭いの血膿が排出される。油紙等は敷いてあるが、次第にそれも透過してシーツが汚れるので取り替えてもらうのだが、その染み込んだ毛布などの跡はいくら洗濯しても落ちなかったそうだ。

 

 私は目だけを巡らしながら、いろいろ思い続け、部屋の壁を見る毎日だった。母は毎日通い続けた。何日目だっただろうか。目が突然銀色にビカッと光って周りの人が逆さになったように見えた。瞬間、私は気絶したらしい。母が「先生たいへんです!!」と駈け出して行くのが聞こえている。その時は知らなかったのだが、気絶しながら一部始終が聞こえていたのだ。出血多量だった。直ぐに止血注射が打たれ、その後輸血が行われた。父も母も姉も採血に参加し、足りない分は輸血の機関から賄われた。

 

 最も仲のいい友人にこの病院の産科部長の息子さんがいて、彼は学校で「野田君は危ないかもしれない」と言っていたそうである。後で知った。

 

  いろいろな事があったが、長く書きすぎたのでここら辺で終わりにしよう。退院は2ヶ月後の11月になってからだった。退院後もしばらくは家での穏やかな時間が必要だった。

本を読んで過ごす毎日だった。学期末の試験の少し前頃、学校に復帰したのだったろうか。ほとんど授業は受けずに試験となった。成績は首位を維持していた。多くを小学校時代に得たことで賄っていた。

 

  後日、この私にとっての一大事を原稿用紙20枚程に纏めて提出したところ、廊下の壁にすべて張り出され皆が読んでくれた。ただその後その原稿は返っては来ず行方不明となってしまった。もちろん今手元にない。それがあればもっといろいろなことが思い出せるのだが、今はもう一部のことが記憶にあるのみである。これに限らず紀行文集等も、一部の写真等が抜け落ちて返って来たりする時代だった。あまり気にしていなかったので、今は残っていないものが幾つかある。

 

   中学1年はこれらのことで終って2年がやってくる。